ナチスの「ユダヤ人絶滅計画」最初の移送者は999人の女性たちだった、生存者が語る過酷な体験
1936年頃、スロバキアの町フメンネーで撮影された写真。
ここに写る5人の少女のうち2人が、1942年3月25日に、ポーランドのアウシュビッツへ送られた。
アナ・ヘルスコビッチさん(左から2人目)とレア・フリードマンさん(左から4番目)は、いずれも収容所から生きて帰ることはなかった。
ナチスの「ユダヤ人絶滅計画」最初の移送者は999人の女性たちだった、生存者が語る過酷な体験
「ある朝起きてみると、家の外に貼り紙がされていました。1942年3月20日、16歳以上で未婚のユダヤ人女性は全員、労働のため学校に集まるようにと書かれてありました」
当時わずか17歳のイディス・フリードマンさんは、将来医者になるのが夢だった。姉のレアさん(19歳)は、弁護士を目指していた。ところが、2人の夢はその2年前にヒトラーがスロバキアを併合したことで打ち砕かれた。
親ナチスのスロバキア政府は、ユダヤ人に対する厳しい法律を制定し、14歳以上のユダヤ人子弟への教育の権利を剥奪したのだ。「私たちは、猫を飼うことさえ許されませんでした」
ここでイディスさんは話を止め、大きくため息をついた。「我が家には、この命令が適用される娘が2人いたんです」
「親衛隊がここにいるなんておかしい」
母親のハンナさんは、貼り紙に憤った。「母は『とんでもない法律だわ!』と言っていました」(参考記事:「20世紀の戦争プロパガンダ地図12点、敵はタコ」)
一家が暮らしていた町、フメンネーの町役場は、心配する親たちをなだめ、娘たちは「契約奉仕者」として工場で軍靴を製造するために送られるのだと説明した。そこでハンナさんは、袋にわずかばかりの所持品を詰め込んでイディスさんとレアさんに持たせ、2人を送り出した。昼には家に帰されると思っていた。
学校に集まった200人ばかりのほとんどを、イディスさんは見知っていた。その多くは、イディスさんと同じ10代の少女だった。「フメンネーは大きな家族のような町でしたので、人々はみな顔見知りでした」。町の職員や軍人が少女たちを並ばせて受付をしていたが、そのなかには軍服を着たナチス親衛隊の姿があった。「親衛隊がここにいるなんて、おかしいと思ったんです」と、イディスさんは言う。
全員の名前が用紙に書き込まれると、医師が現れて身体検査のために服を脱ぐよう命じた。知らない男たちの前で服を脱ぐなど聞いたことがなかったが、命令に従わないわけにはいかない。「ちゃんとした検査ではありません。誰も不合格になったものなどいませんでした」
学校の外に親たちが集まってきた。昼休みはもうとっくに済んだのに、子どもたちが戻ってこない。その日は金曜日で、家では翌日の安息日の準備を始めていた。その時、誰かが裏口から隠れるように連れ出される少女たちに気付いた。警備兵に見張られ、駅の方へ歩かされている。驚いた親たちは、娘たちの名を呼びながら後を追いかけた。どこへ連れていかれるのか、誰も教えてはくれなかった。
駅に着くと、少女たちは列車に乗せられた。親に別れを告げる暇もなかった。イディスさんは、群集のなかから母親の声を聞いた。「レアはまだしも、イディスはまだ小さな子どもなんですよ」
列車は駅を離れ、フメンネーから西へ120キロ離れたポプラトの町へ到着した。イディスさんたちは列車を降ろされて、軍用の建物に連れて行かれた。中は、何もないがらんどうだった。翌朝、男の警備兵がやってきて建物の中を掃除するよう命じた。「私たちはこのために連れてこられたんだと思いました。これさえやれば帰れるんだと」。だが、その日再びたくさんの女性が列車に乗せられてきた。その翌日も、さらに多くの女性が到着した。いずれも、若い未婚のユダヤ人ばかりだった。
フメンネーを離れてから5日後には、女性の数は1000人近くに膨れ上がった。警備兵は、彼女たちに荷物をまとめるよう命じた。外に出ると、線路に家畜運搬用の貨車が停まっていた。
「貨車のなかには何もありませんでした。ただ小さな窓があるだけ」。イディスさんは、指で小さな長方形を作って、窓の大きさを示した。「そして、外から鍵がかけられたんです」
ナチスは頻繁に婉曲的な言葉を使って、その犯罪の本質を覆い隠そうとしました。 ユダヤ人絶滅計画には「最終的解決」という名称が使われました。 ナチスドイツの指導者たちが「最終的解決」の実施を最終的に決定した時期は知られていません。 ユダヤ人のジェノサイド(大量殺戮)は、10年間にわたって過酷さを極めつつあった差別的処置の頂点を成すものでした。
アドルフ・ヒトラーの支配下で、ユダヤ人の迫害と分離は段階的に実施されました。 ナチ党が1933年にドイツで政権を握った後、国家支援による人種差別主義によって、反ユダヤ人主義の法律、経済的ボイコット、および「水晶の夜」ポグロムと呼ばれる暴動が起こりました。これらはすべて、社会からユダヤ人を組織的に孤立させ、国内から追放することを目的としていました。
第二次世界大戦の発端である1939年9月のドイツ軍によるポーランド侵攻後、反ユダヤ人政策はヨーロッパのユダヤ人の投獄および最終的な殺害へとエスカレートしていきました。 ナチスはまず、総統府内(ドイツ民事政府の監督下にあった中央および東部ポーランドの領土)と監督保護地区(ドイツに併合されたポーランドの西部)に、ゲットー(ユダヤ人を隔離および管理するために設計された囲い込まれた場所)を建設しました。 ポーランドと西ヨーロッパに住むユダヤ人はこれらのゲットーに移送され、食糧も十分にない過密で不衛生な環境での生活を強いられました。
1941年6月のドイツ軍によるソ連侵攻後、親衛隊と警察部隊(移動虐殺部隊)はユダヤ人コミュニティ全体を標的とした大量虐殺作戦を開始しました。 1941年秋には、親衛隊と警察部隊は移動式ガストラックを導入しました。 排気管を改造して有毒な一酸化炭素ガスを密閉空間に送り込み、中に閉じ込められた人々を殺害するこれらのパネル張りのトラックは、進行中の射殺作戦を補完する手段として使用されました。
ソ連侵攻後4週間が経った1941年7月17日、ヒトラーは親衛隊長官ハインリヒ・ヒムラーに占領下のソ連の全治安問題の責任を担わせました。
ヒトラーは、認識されているすべての脅威を物理的に排除し、永遠のドイツによる統治を確立するために、ヒムラーに広範な権限を与えました。 その2週間後の1941年7月31日、ナチスの指導者ヘルマン・ゲーリングは、親衛隊大将ラインハルト・ハイドリヒに、「ユダヤ人問題の完全な解決」を実施する準備を認可しました。
1941年秋には、親衛隊長官ハインリヒ・ヒムラーはドイツ人将軍オディロ・グロボクニク(ルブリン地区の親衛隊および警察隊指導者)に、総統府内のユダヤ人を組織的に殺害する計画の実施を任命しました。 その後、この計画はハイドリヒ(1942年5月にチェコのパルチザンにより暗殺された)の名前にちなんで「ラインハルト作戦」と命名されました。
大量殺戮のみを目的とした3か所の絶滅収容所が、ラインハルト作戦の一環としてポーランドのベウジェツ、ソビボル、トレブリンカに建設されました。
マイダネク収容所は、総統府下内に住むユダヤ人の殺害拠点として、ときどき使用されました。 ここにはガス室が設けられ、主に強制労働者としては弱すぎて役に立たなかった数万人ものユダヤ人が殺害されました。 ウッチの北西およそ48kmにあるヘウムノ絶滅収容所では、少なくとも15万2,000人がガストラックで殺害されました。犠牲者のほとんどはユダヤ人でしたが、数千人のロマ族(ジプシー)も含まれていました。 1942年の春、ヒムラーはアウシュビッツ第2強制収容所(アウシュビッツ・ビルケナウ強制収容所)を絶滅収容所に指定しました。 アウシュビッツ・ビルケナウ強制収容所では、ヨーロッパ各国から連行された約100万人のユダヤ人が殺害されました。
ドイツの親衛隊と警察は、絶滅収容所にて有毒ガスによる窒息または射殺により270万人近くのユダヤ人を殺害したのです。 「最終的解決」の全体像は、ヨーロッパの全ユダヤ人をガス室や射殺などの方法で殺害することでした。 ホロコーストでは、約600万人のユダヤ人男性、女性、子供が殺害されました。これは、第二次世界大戦の前にヨーロッパに住んでいたユダヤ人の3分の2にも及ぶ数です。