歴史群像2月号の記事 日本空母論を読みました。日本海軍の戦艦や巡洋艦、駆逐艦、潜水艦について書かれた本は色々とありますが、表面上のスペックや特徴などは書かれているものの、建造されるにあたっての考え方とか方針などについて書かれたものにはなかなかお目にかかれません。今回の日本空母論という記事は日本海軍の航空母艦の建造にあたっての考え方とか特徴、問題点が書かれていて初めて読む内容でした。
日本海軍の空母の欠点として言われているのはカタパルトが実用化できなかったこと。これについては色々な本にも書かれています。米海軍と比べて一番大きな欠点であることは確かですから。カタパルトを実用化した米海軍は低速な護衛空母にもカタパルトを搭載して艦上機を運用しましたが、実用化できなかった日本海軍の低速な改造空母はほとんど役に立ちませんでした。このカタパルトの問題以外に日本海軍の空母にはどのような問題があったのか。
今回この記事を読んでびっくりしたのは赤城と加賀についてでした。軍縮条約で戦艦の保有が制限されたため建造途中だった赤城と加賀が航空母艦として建造されました。当初の三段式飛行甲板はまあしょうがないとしても、ミッドウェー海戦で撃沈されるまで活躍したので性能的にも問題ないものだと思っていました。しかしまず最高速度が赤城で30ノット。加賀だと30ノットに届きません。この速力不足が大きな問題だったということです。確かにその後空母として建造された蒼龍や瑞鶴は34ノットだったはず。この速力の差によって赤城と加賀は中途半端な空母となってしまったということです。
そして軍縮条約により空母の保有も制限されるようになると赤城と加賀の排水量が大きいため、残った枠で建造できる空母の大きさが制限されてしまったということです。このような視点で日本海軍の空母のことを考えたことがなかったので、そのような影響もあったのかと驚きました。
それからこれも初めて知ったことですが、赤城と加賀は飛行甲板の下に二段の格納庫を持っていますが、二段目の格納庫から飛行甲板まで艦上機をあげるには、まずエレベーターで二段目の格納庫から一段目の格納庫に持ち上げていったん艦上機をエレベーターからおろし、エレベーターを再度セットして一段目の格納庫に下した艦上機を再びエレベーターに乗せて飛行甲板まで持ち上げるのだということです。一気に二段目の格納庫から飛行甲板まで艦上機を持ち上げることができなかったのです。技術的な問題でそうなったのかどうかまでは書かれていませんでしたが、この手間のかかり方は大きな欠点といえると思います。
開戦当時の艦上機機は零戦、97艦攻、99艦爆でしたが、その後新規に開発された天山艦攻、彗星艦爆は重量が重くなり、改造空母では運用が困難になってしまったとのことです。さらに流星はさらに重量が重くなったので瑞鶴クラスでも対応できるように改装しなければ運用できなかったということです。艦載機の開発はもちろん大切ですが、せっかく開発しても空母が運用できなければ意味がありません。その点で艦載機の開発と空母の建造とがうまくマッチングしていなかったというわけです。まあ、戦争末期になると実際には雲龍クラスの空母も載せる飛行機がないというか空母を離発着できる操縦者がいなくなってしまって建造しても意味がなかったというのはあるのですけどね。
このように日本海軍の空母を論じたものを初めて読んだのですが、これは空母に限らず戦艦にも巡洋艦、駆逐艦、潜水艦にも言えることであると思います。このような見方から書かれ記事が今後も出るといいなあと感じたのでした。
日本海軍の空母の欠点として言われているのはカタパルトが実用化できなかったこと。これについては色々な本にも書かれています。米海軍と比べて一番大きな欠点であることは確かですから。カタパルトを実用化した米海軍は低速な護衛空母にもカタパルトを搭載して艦上機を運用しましたが、実用化できなかった日本海軍の低速な改造空母はほとんど役に立ちませんでした。このカタパルトの問題以外に日本海軍の空母にはどのような問題があったのか。
今回この記事を読んでびっくりしたのは赤城と加賀についてでした。軍縮条約で戦艦の保有が制限されたため建造途中だった赤城と加賀が航空母艦として建造されました。当初の三段式飛行甲板はまあしょうがないとしても、ミッドウェー海戦で撃沈されるまで活躍したので性能的にも問題ないものだと思っていました。しかしまず最高速度が赤城で30ノット。加賀だと30ノットに届きません。この速力不足が大きな問題だったということです。確かにその後空母として建造された蒼龍や瑞鶴は34ノットだったはず。この速力の差によって赤城と加賀は中途半端な空母となってしまったということです。
そして軍縮条約により空母の保有も制限されるようになると赤城と加賀の排水量が大きいため、残った枠で建造できる空母の大きさが制限されてしまったということです。このような視点で日本海軍の空母のことを考えたことがなかったので、そのような影響もあったのかと驚きました。
それからこれも初めて知ったことですが、赤城と加賀は飛行甲板の下に二段の格納庫を持っていますが、二段目の格納庫から飛行甲板まで艦上機をあげるには、まずエレベーターで二段目の格納庫から一段目の格納庫に持ち上げていったん艦上機をエレベーターからおろし、エレベーターを再度セットして一段目の格納庫に下した艦上機を再びエレベーターに乗せて飛行甲板まで持ち上げるのだということです。一気に二段目の格納庫から飛行甲板まで艦上機を持ち上げることができなかったのです。技術的な問題でそうなったのかどうかまでは書かれていませんでしたが、この手間のかかり方は大きな欠点といえると思います。
開戦当時の艦上機機は零戦、97艦攻、99艦爆でしたが、その後新規に開発された天山艦攻、彗星艦爆は重量が重くなり、改造空母では運用が困難になってしまったとのことです。さらに流星はさらに重量が重くなったので瑞鶴クラスでも対応できるように改装しなければ運用できなかったということです。艦載機の開発はもちろん大切ですが、せっかく開発しても空母が運用できなければ意味がありません。その点で艦載機の開発と空母の建造とがうまくマッチングしていなかったというわけです。まあ、戦争末期になると実際には雲龍クラスの空母も載せる飛行機がないというか空母を離発着できる操縦者がいなくなってしまって建造しても意味がなかったというのはあるのですけどね。
このように日本海軍の空母を論じたものを初めて読んだのですが、これは空母に限らず戦艦にも巡洋艦、駆逐艦、潜水艦にも言えることであると思います。このような見方から書かれ記事が今後も出るといいなあと感じたのでした。