開いてしまったからには見て行きなさい。フラッシュだけでも
KOKIA「ありがとう」
私の父について書きます。
群馬出身の農家の生まれで、6・7人兄弟だったかと思います。
中学の頃に一人で上京して東京でステンレス加工の技術を身につけ、
お母さんとはお見合いという形だったらしいです。
その後仕事は、独立して有限会社を立ち上げました。
小さい頃、数キロ先の工場まで母に連れて行ってもらって、一階は借りた工場。
その二階の畳の部屋で遊んで居たのを覚えています。
兄も居たから私が1・2歳くらいでしたででょうか。
兄は三歳上で幼稚園に通っていたので。
近くに倉庫も借りて、寒くも無い季節なのにストーブ炊いて、汗だくになりながらステンレスのビニール剥きしましたね。(私が小学生の頃とかよく皆で手伝いしましたね
最初はアパートに住んで居たらしいですが、私が物心付く頃には一軒家でした。
一階には居間と台所+トイレ+お風呂
二階は6畳が2間+板の間1畳
お向かいは牛乳屋さんで、朝よく配達のおばさんに着いて行くのが楽しみでした。
左隣のおうちの白い犬が、夏に玄関開けていると、遊びにきて
その犬がイカの珍味が好きでw
腰抜けちゃうよーwなんて言いつつイカで釣って隣のお家まで連れてったり。
家の階段に板ひいて、滑り台もあったなぁ。
キャッチボールもしたいとねだって、荒川の土手にお父さんに連れられて友達と遊びに行ったりもしましたね。
お母さんがやめてーwって言ってたのにw知り合いから貰った風船膨らまして、二階の6畳2間風船王国も作ったりw(作ったのはお父さん
私が高い所上るのが好きで、お父さんの友人が折角遊びに来てたのに・・
よじ登った先のガラスケース、お父さんの頭の上にぶち込んじゃったね。(2M上くらいから
ごめんなさい。
ジンマシンが出るアレルギーが私にあったので、あの時は3歳くらいだったのかなぁ。
かゆくて泣いて。
お母さんは工場の手伝いに行ってて、兄と二人で。
兄が心配して工場にやっと電話したのを覚えています。黒いので番号をぐるっと回す電話。
閉まり掛けの薬局でお母さんと市販の「痒み止め」を買って帰りました。
最近知りましたが兄上、私の保育園にもお迎えとか来てくれてたらしいです
(/ω\)
月に一回外食しよう会したりして、近所であちこち行って見たり、謎の地中海料理でエスカルゴ(°m°;)なんじゃこりゃ・・ 食べてみたり。帰りに皆で100円もってパチンコによく行きましたね。
何も趣味が無いというか出来なかった?
仕事一色の人だったので・・
(でも当時の流行のボーリングの玉とかグローブはあったらしい?)
それで、父上が始めたのが熱帯魚。
週末になっては北千住の熱帯魚ショップに出かけて、一番買ったのはネオンテトラですね。
海水魚のが綺麗ですが・・(´・ω・`)ねだったけどジャンルが違ったので諦めました
高校から帰ってきて熱帯魚にエサをあげて、あ。温度がおかしい!?って父上に電話したりして
父上帰ってくるまで水足したりしてハラハラ・・・
そういうのに気が付くのはおまえだけだと誉められたんだよな
短大でゼミでスキューバダイビングのライセンス取りに伊豆に行って。
帰って寝巻きご飯食べてテレビ見てたら、お母さんが、お父さんが具合悪いみたいだから車で行くというので、
私も付いて行った。
別段何も考えずチューリップの寝巻きのまま。
工場に着くと、父上は毛布の上に横になっていた。
昼寝の時に見る光景なので別段気にしなかった。
父上は健康診断書が引き出しに入っているからと、言ったが母上はしばらく見つけられなかったらしくて
「こっちじゃねーの?」なんてわしもがちゃがちゃやってた。
そのうち見つかって、女子医大第二が近いのでそこに向かった。
お父さん助手席かな?って思ったら、横になりたいからって後部座席に。
着いて降りた
病院の入り口までの間に吐いた。
こんな父の姿は見たこと無いので真っ白になった。
病院に入って救急の受付の人が症状を聞いてくれる。
母が答えている。
ソファに父はぐったり横になって、その質問の間にも吐いた
思わず、私は背中をさすった。
生まれてこの方父の背などさすったこと無いが。何か楽にならないかと・・
そのまま。待合室でお待ちくださいと言われて
所謂ロビーで横になってたら、突然、特大いびきかきだしました
お母さんが大声あげたとおもう
救急室の看護師さんもきてくれました
医療台?ってのにのせようってので女4人で
看護士さんは頭動かしちゃって気が合って?
私は頭の後ろと膝に焦って回したが(お姫様だっこ)、バカ力出ましたね。
つかそこの看護士持つとこおかしい・・・。頭とかピンポイントしてくれたんだろうけどさ・・
その時見た、父の目が忘れられません。
それでホント入り口脇の救急のとこで色々やっていただけたみたいです。
その間に母上が持ってる十円玉で兄、と親戚に電話を取ってました。
自分も持ってる十円玉出してたので握り締め。
兄が着く頃、服を切って良いかとの判断を聞かれ
臓物系を掃除機で吸うような音が聞こえ
泣く母に「気管に詰まったのを吸ってるんだよ」
「大丈夫だよ。今の医療は発達してるんだし」
ずっとずっとそう思ってたし。
信じたくなかった。
そんな軽く死んじゃうなんてドラマじゃないかと。
兄がついてしばらくして、別室に運ばれて
その次はもうお別れの挨拶でしたね。
白衣着て、消毒して
兄と母が先に居て。
「お父さん!!」
「俺に仕事教えてくれるんじゃかなったのかよ」
真っ白でした。
握り締めた十円玉もすべてどらまの中の?
ドラマみたいにピーっって心拍停止の音がしたけど。
何も覚えてない
いや全部覚えてるけど、何もしゃべれなかったし、ブラウン管の向こうから見ているような感覚でした。
あの日、ダイビングの話しようと思ってたのに。
海の底から上見るとすごくキラキラ。きれいなんだよ
泣いちゃいました・・・
私にはありがたいことにまだ両親は健在です。
孫の面倒もよく見てくれます。
小さい頃毎日喧嘩してた2人を見て育ち、子供ながらに『最悪だ』と思ってました。
結婚なんてしなくていいと思ってたり、ほんとについ最近まで両親共に心を開く事も出来ずにいました。
でも、もう60を当に超えてなお仕事を頑張る父。
私のことをいっつも心配してくれる母。
まだ私は感謝している事を伝えられてません。
どうして私なんか産んだのよ!とか、ドラマみたいなイヤなセリフ吐いたこともあります。
今は自分が親になって分かった事、感謝してる事たくさんあります。
さっさと離婚すれば?と言う私に、離婚したいけど私の為に頑張ると言ってたあの頃の母の気持ちがよく分かる気がします。
父の兄弟や同世代の親戚がぽつぽつ他界していく年齢になりました。
お葬式に出ると“お父さんやお母さんがこうなったらどうしよう・・・”漠然と考えたりもします。
さっさといなくなればいいのにと思っていたこともあるけど、今は一年でも長く生きて欲しいと思います。
いつ来るか分からない、その日が来る前に、私もちゃんとありがとうって言いたいです。
長々と書いちゃったヽ( ;´д`)ノ
トリスさんの気持ちはちゃんとお父さんに伝わってると思いますよ^^
長くなりましたね。今度は母上を大事になさってください。それが、父上の親孝行となるでしょう。
色々考えさせてしまったみたいですいません。
>Aoyさん
泣かせちゃってごめんなさい。ちなみにこのフラッシュはとても有名なんですが、自分何度見ても泣いてしまいます(´・ω・`)
わしも色々暴言吐きましたね~。
Aoyさんのご両親様もAoyさんが近くにいてくれて沢山のお孫さんに囲まれてきっと喜んでいる事かと思います。
生きてるうちになかなかアリガトウなんて言えないですが、ご両親お子さんと楽しく過ごしてください。
一緒に過ごす時間がアリガトウにも繋がる気がします。
私もたまには実家に帰ろう・・
>jinさん
居て当たり前と思っていると突然ですからね・・。
じんさんのお父様もお大事になすってください。
よく知っていますね・・ビニールw
同じ業界なんでしょうかね~w
今は水色だったかなぁ・・最近やってないから。当時はもっと分厚めの黒いビニールで夏にストーブ付けて締め切っても硬くて剥き難かったです。シャリ台の脚とかに使うんだったかな~?
じんさんも自営目指してるんですね。一人であれこれ何でもやらないとになってしまってやはり責任というのがとてもプレッシャーになるかと思いますが、奥様や周りの方々と協力して無理なさらないようにしてください。
息を抜ける時には、たまには思いっきりパーッ!リフレッシュして下さいね。
寝落ちしてる時ちゃんとお布団で休んでるのか心配です(´・ω・`)
知り合いの寝落ちさんは横の布団にころんちょして寝ちゃうらしいが、自分は・・・・座ったまま朝まで落ちてます・・(´д`)
ちなみに怖い事を言いますと、父の死は解剖しなかったので現在も原因不明ですが(その年の健康診断では優良だった)、長年の精神的ストレスでは無いか・・と言うことらしいです。頭の血管が切れたので。
謎の自慢ですが南極だか北極のエントツとかも手がけたらしいです。(*'-')
たまにしか実家には帰れてませんが、帰った時は母や兄と夜中まで酒盛りしつつ話込んだりしています。
今度は舟和の芋ヨーカンでも持って帰ろう・・。母上好きだから。