コメント
失礼いたします。
(
tenjin95
)
2009-01-24 08:31:54
> 管理人様
結局、各家庭の中で、好き勝手に育てられていることにも問題があるのだと思います。道元禅師が、次のように仰ったことは、今でも重要であると思う次第です。
世間の人にまじはらず、己が家ばかりにて生長したる人は、心のままにふるまひ、おのれが心を先として人目を知ラず、人の心をかねざる人、必ずあしきなり。学道の用心も是ノごとシ。衆にまじはり、師に随ひて我見を立せず、心をあらため行けば、たやすく道者となるなり。
『正法眼蔵随聞記』巻6-2
→tenjin95さん
(
tera
)
2009-01-25 08:01:51
引用有り難うございました。随聞記に、このような記述があったのですね。目からウロコです。「衆にまじはり、我見を立せず」まさにその通りですね。
我見を捨てることが人格形成では大切なところですが、そのことが、個性の伸張を抑圧するものと勘違いしているおとなが多いのだと思います。
今こそ、道元禅師の教えに学びたいものです。
同感です。
(
ぜん
)
2009-01-26 21:02:22
子どもの傍若無人ぶりにあきれることがあります。
先日、我が子と同級生の法事に行きました。
読経の最中も、焼香になっても、姿を見せません。
お母さんに「○○君はどうしているの」と聞くと、「奧で遊んでいた」ということでした。
法事の席で騒がれるのも困りますが、無始というのも困ったものです。
躾は大切ですね。
我が子のことも考えなければなりませんが(汗)
→ぜんさん
(
tera
)
2009-01-28 09:06:40
そちらでもそのようなことがありましたか。確かに、子どもの法要参加についての意識が希薄だと思いますね。棚経で訪問してお経をあげていても、奥の部屋でテレビを観ていることもあります。困ったものですね。
もっともです!
(
m-oomori
)
2009-01-31 22:55:36
ま、まったく 同感です。
ある、友人(以前)の家庭にお邪魔したときのことです。
うちの子供と同じような歳で仲良くできたらな~と、
家に入ったらビックリ 子供だけ土足です、家の中ぜんぶ 親は、何も言わず 私のビックリ顔を見て(うちは、子供の実勢にまかせ「のびのび」と育てています。)と得意げに話してくるのです。
がまん は教えないの?とたずねると(出来る限り 子供のうちは、がまんさせない)教育だとの事、
当然 ながいはせず 付き合いもなくなりました。
なにか かんたんで大事なこと、わすれている親御さんが、比較的若い人に多いいようです。
Unknown
(
ペコの飼い主の娘
)
2009-02-01 05:39:51
ペギーという方は、教育の危機は、教育の危機ではなく、生命の危機である。 と、説いているみたいです。
物事の善し悪しや、忍耐を学び得ることの出来なかった人が、通り魔事件などの凶悪な犯罪を起こしてしまうのでしょうか…
道を歩いているだけで、命を落としかねない今の世の中、確かに生命の危機だなぁ~と一人で納得しちゃています(^^ゞ
まとも(?)に育ててくれた両親に感謝、感謝です。
→m-oomoriさん
(
tera
)
2009-02-04 22:48:56
確かに価値観の多様化とはいえ、躾そのものがゆらいでいるように思いますね。はきものを揃えるということすら、消えつつある躾教育ですが、揃えるどころか土足とはびっくりですね。
そのような価値観を持つ若い人も、すぐ社会の中心となる中高年になるのですから恐ろしいですね。
躾は子どもの宝ですね
(
風月
)
2009-02-13 10:32:43
法要のとき騒いでいる子と、授業のとき騒いでいる子と同じでしょうね。
私が伺う家はどういうわけか、子どもたちが皆、法事にきちんと座っているのです。お年寄りが多い家のようにも思います。お家の躾がきちんとなされているのでしょう。
以前、風月庵だよりにも書かせて頂きましたが、幼児からの立腰教育を見直したいですね。坐禅はなかなか浸透させづらいでしょうが、正座はすぐにできます。昔の人間は正座が当たり前でしたから、この正座から生きる姿勢が自然とできていたのではないでしょうか。
本当に子どもの教育を真剣に見直すことが、亡国の救いと思っています。このままでは日本は危ない、と心配しています。
はじめまして
(
叢林@Net
)
2009-02-15 10:19:06
初めてコメントさせていただきます。
とある知人のブログより寄らせて頂きました
子どもの躾に関するご意見、いたく共感いたしました。
僧の身なれども、私も人の親の身......人事ではないと想いを新たにいたしました。
躾には愛情が必要だとよく言いますが、仏教徒の我々であればそれは「慈悲」という言葉に置き換えられるのでしょうか。
時と場合によっては、嫌われることをも恐れない慈悲の精神が必要なのでしょう。
ご指摘の「子どもだからしょうがない」と見逃す姿勢は、まさに慈悲に欠ける行為だということに気付けたような気がします。
自分の子どもが叱られても許容できるだけの親の姿勢も求められているのかもしれませんね。
それも慈悲の忍耐によるものでしょう
P.S.
コメントが重複してしまいました
調整頂けたらありがたく思います
→ペコちゃんとこのお姉さん
(
tera
)
2009-02-16 18:19:35
「生命の危機」、その通りだと思います。安全で豊かな人生を送るためにも、教育・躾・マナー・・・こそ確かに大切なのだと思います。
小さな時こそ、立派な人格を育て、生命を守るための教育の機会なのですね。
感謝していただけるお父様・お母様も嬉しいことですね。そういう意味でも、何とか大切なマナーの徹底を呼びかけて行きたいものです。
貴重な情報提供、ありがとうございます。
ペコちゃんと書こうとしたらネコちゃんになってしまい、送りなおしました。
→風月さん
(
tera
)
2009-02-16 18:27:40
やはり、法要を営む導師の威厳崇高さで、子供も自然と威儀を正すのかも知れませんね。私はまだまだですね。
立腰教育、ほんとうに大切だと思います。畳文化が消えつつありますから、寺の本堂はこのような機会の絶好の場所かも知れません。
ところが残念ながら、大人の要望も高く、だんだんと法要も椅子席になりつつあります。考えなければいけませんね。
→叢林@Netさん
(
tera
)
2009-02-16 18:35:25
はじめまして、お訪ね有り難うございました。充実した仮装叢林ネット、感服しました。とても参考になります。
今、教化方針で愛語が取り上げられていますが、回天の力となる「愛語」を発することは勇気が要りますが、慈悲とはそういうことなのかも知れませんね。
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結局、各家庭の中で、好き勝手に育てられていることにも問題があるのだと思います。道元禅師が、次のように仰ったことは、今でも重要であると思う次第です。
世間の人にまじはらず、己が家ばかりにて生長したる人は、心のままにふるまひ、おのれが心を先として人目を知ラず、人の心をかねざる人、必ずあしきなり。学道の用心も是ノごとシ。衆にまじはり、師に随ひて我見を立せず、心をあらため行けば、たやすく道者となるなり。
『正法眼蔵随聞記』巻6-2
我見を捨てることが人格形成では大切なところですが、そのことが、個性の伸張を抑圧するものと勘違いしているおとなが多いのだと思います。
今こそ、道元禅師の教えに学びたいものです。
先日、我が子と同級生の法事に行きました。
読経の最中も、焼香になっても、姿を見せません。
お母さんに「○○君はどうしているの」と聞くと、「奧で遊んでいた」ということでした。
法事の席で騒がれるのも困りますが、無始というのも困ったものです。
躾は大切ですね。
我が子のことも考えなければなりませんが(汗)
ある、友人(以前)の家庭にお邪魔したときのことです。
うちの子供と同じような歳で仲良くできたらな~と、
家に入ったらビックリ 子供だけ土足です、家の中ぜんぶ 親は、何も言わず 私のビックリ顔を見て(うちは、子供の実勢にまかせ「のびのび」と育てています。)と得意げに話してくるのです。
がまん は教えないの?とたずねると(出来る限り 子供のうちは、がまんさせない)教育だとの事、
当然 ながいはせず 付き合いもなくなりました。
なにか かんたんで大事なこと、わすれている親御さんが、比較的若い人に多いいようです。
物事の善し悪しや、忍耐を学び得ることの出来なかった人が、通り魔事件などの凶悪な犯罪を起こしてしまうのでしょうか…
道を歩いているだけで、命を落としかねない今の世の中、確かに生命の危機だなぁ~と一人で納得しちゃています(^^ゞ
まとも(?)に育ててくれた両親に感謝、感謝です。
そのような価値観を持つ若い人も、すぐ社会の中心となる中高年になるのですから恐ろしいですね。
私が伺う家はどういうわけか、子どもたちが皆、法事にきちんと座っているのです。お年寄りが多い家のようにも思います。お家の躾がきちんとなされているのでしょう。
以前、風月庵だよりにも書かせて頂きましたが、幼児からの立腰教育を見直したいですね。坐禅はなかなか浸透させづらいでしょうが、正座はすぐにできます。昔の人間は正座が当たり前でしたから、この正座から生きる姿勢が自然とできていたのではないでしょうか。
本当に子どもの教育を真剣に見直すことが、亡国の救いと思っています。このままでは日本は危ない、と心配しています。
とある知人のブログより寄らせて頂きました
子どもの躾に関するご意見、いたく共感いたしました。
僧の身なれども、私も人の親の身......人事ではないと想いを新たにいたしました。
躾には愛情が必要だとよく言いますが、仏教徒の我々であればそれは「慈悲」という言葉に置き換えられるのでしょうか。
時と場合によっては、嫌われることをも恐れない慈悲の精神が必要なのでしょう。
ご指摘の「子どもだからしょうがない」と見逃す姿勢は、まさに慈悲に欠ける行為だということに気付けたような気がします。
自分の子どもが叱られても許容できるだけの親の姿勢も求められているのかもしれませんね。
それも慈悲の忍耐によるものでしょう
P.S.
コメントが重複してしまいました 調整頂けたらありがたく思います
小さな時こそ、立派な人格を育て、生命を守るための教育の機会なのですね。
感謝していただけるお父様・お母様も嬉しいことですね。そういう意味でも、何とか大切なマナーの徹底を呼びかけて行きたいものです。
貴重な情報提供、ありがとうございます。
ペコちゃんと書こうとしたらネコちゃんになってしまい、送りなおしました。
立腰教育、ほんとうに大切だと思います。畳文化が消えつつありますから、寺の本堂はこのような機会の絶好の場所かも知れません。
ところが残念ながら、大人の要望も高く、だんだんと法要も椅子席になりつつあります。考えなければいけませんね。
今、教化方針で愛語が取り上げられていますが、回天の力となる「愛語」を発することは勇気が要りますが、慈悲とはそういうことなのかも知れませんね。