コメント
こんばんは。
(
hitomi
)
2007-06-29 01:18:55
「千の風」に付いて、blogに書きたいなぁと思っていました。
最初CD屋さんで聞いた時には耳障りの良い曲だなぁ、と思って手にとって買おうかと思いました。
詩を読んで、「私はお墓にはいません~」のくだりがどうしても納得できず、止めました。
死生感は人それぞれかも知れませんが、ご先祖様をないがしろにするような気がしてなりませんでした。
近しい祖父母はいつも近くで見守ってくれている。
その事とお墓にいないという事は同じではないと思います。
最後の旅立ちの時、先に行った身内が迎えに来ると、よく聞きますよね、私は本当にそうなのか知りたく、祖父の臨時間際「おばあちゃんに会えた?」と聞きました、祖父はほとんど意識はありませんでしたが、コックリと首を立てに振り笑顔になりました。
不謹慎だと思う方もいらっしゃるかと思いますが、私は祖父が祖母やご先祖に導かれ、迷う事なく旅立つ事が出来ると安心しました。
我が家は主人がカトリックの国の人間ですが、主人の父と亡くなった兄弟の位牌と私の祖父母の位牌を(魂入れはしていません)仏壇に置き、朝夕お参りしています。
いつも見守っていてくれる事への感謝をしています。
私の仏教感は先祖感謝、こんな感じです。
まだまだ迷う人生を送る事でしょう。(笑)
teraさんのタイトルから外れてしまい申し訳ありませんでした。
霊魂
(
zazen256
)
2007-06-29 04:53:38
私は霊魂は存在すると信じます。それを言葉で説明することはできないと思います。
私たちはふとしたことで何十年も前に死去した親や祖父母のことを思い出し、励まされることがあります。人生とはそのような先祖との繋がりを基盤として営まれるものであると思います。先祖ばかりではありません。生前に親しくした知人についても同じような繋がりが存在します。
ですから親戚縁者の方々の葬儀などの法事に出席したときや、僧侶の方々のお経を聞くときには、当に寂静の心で厳粛な気持ちになるのです。
このような繋がりを基盤として人々も世の中も成長して行くのではないでしょうか。
この問題はことばや理論では説明不可能な分野に属すると思います。乳幼児にも完備している「雰囲気で直観的に感じ取る分野」に属すると思うのです。
→hitomiさん
(
tera
)
2007-06-29 12:47:47
私も「エッ?」と思った一人です。納骨のときに何といってお経をあげたらいいの?と思いました(笑)。
私はあの歌詞は「お墓にだけいるわけではない」という意味が省略されていると伝えています。
日本に伝わった仏教の良さは、hitomiさんのお考えのように、ご先祖様とつながっている報恩感謝の生死観にあると思っています。
もちろん「無常の理」などは仏教の中核ですが、故人ともつながりあった永遠の命について、特にお通夜の晩には説くようにしています。
ご主人様のお父様のお位牌もお祈りされているとのこと、すばらしいですね。大切なことと思います。
→zazen256さん
(
tera
)
2007-06-29 13:01:39
私も故人とのつながりの中に、魂が存続していくことはあると思っています。それが無意識の中に受け継がれていることもあるでしょう。特に日本の仏教(宗教観)の特徴として、先祖・故人への報恩感謝の文化として根付いていることがあげられると思っています。
詳しく霊魂観につきまして、コメントいただきましてありがとうございます。
霊魂
(
風月
)
2007-07-04 22:31:12
霊魂については、仏教としてきちんと説明しなくてはならないことですが、宗派によっても違うでしょうし、同じ宗派内でもいろいろな考えが出てくるのではないでしょうか。
私も時々に整理して考えています。お釈迦様は一切皆空を説かれたわけですで、あくまでもそれは根底にあっても、それぞれの心が安らぐ法話は大事であると思います。
tera和尚さんのこの頁はコピーしておいて、また学ばせていただきたいと思います。
→風月さん
(
tera
)
2007-07-04 23:31:01
ほんとうに考えさせられます。他宗の捉え方を調べてみて、勉強させられました。我が宗門は特に宗派内で捉え方がそれぞれに違うようにも思います。
仏事、供養・回向を施行する僧侶としては、救済すべき魂について、しっかりと説く必要があるのだと思います。
ご専門の風月先生にこのようにコメントいただき恐縮で、また励みになります。こちらこそいろいろ学ばせていただきたいと思います。
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最初CD屋さんで聞いた時には耳障りの良い曲だなぁ、と思って手にとって買おうかと思いました。
詩を読んで、「私はお墓にはいません~」のくだりがどうしても納得できず、止めました。
死生感は人それぞれかも知れませんが、ご先祖様をないがしろにするような気がしてなりませんでした。
近しい祖父母はいつも近くで見守ってくれている。
その事とお墓にいないという事は同じではないと思います。
最後の旅立ちの時、先に行った身内が迎えに来ると、よく聞きますよね、私は本当にそうなのか知りたく、祖父の臨時間際「おばあちゃんに会えた?」と聞きました、祖父はほとんど意識はありませんでしたが、コックリと首を立てに振り笑顔になりました。
不謹慎だと思う方もいらっしゃるかと思いますが、私は祖父が祖母やご先祖に導かれ、迷う事なく旅立つ事が出来ると安心しました。
我が家は主人がカトリックの国の人間ですが、主人の父と亡くなった兄弟の位牌と私の祖父母の位牌を(魂入れはしていません)仏壇に置き、朝夕お参りしています。
いつも見守っていてくれる事への感謝をしています。
私の仏教感は先祖感謝、こんな感じです。
まだまだ迷う人生を送る事でしょう。(笑)
teraさんのタイトルから外れてしまい申し訳ありませんでした。
私たちはふとしたことで何十年も前に死去した親や祖父母のことを思い出し、励まされることがあります。人生とはそのような先祖との繋がりを基盤として営まれるものであると思います。先祖ばかりではありません。生前に親しくした知人についても同じような繋がりが存在します。
ですから親戚縁者の方々の葬儀などの法事に出席したときや、僧侶の方々のお経を聞くときには、当に寂静の心で厳粛な気持ちになるのです。
このような繋がりを基盤として人々も世の中も成長して行くのではないでしょうか。
この問題はことばや理論では説明不可能な分野に属すると思います。乳幼児にも完備している「雰囲気で直観的に感じ取る分野」に属すると思うのです。
私はあの歌詞は「お墓にだけいるわけではない」という意味が省略されていると伝えています。
日本に伝わった仏教の良さは、hitomiさんのお考えのように、ご先祖様とつながっている報恩感謝の生死観にあると思っています。
もちろん「無常の理」などは仏教の中核ですが、故人ともつながりあった永遠の命について、特にお通夜の晩には説くようにしています。
ご主人様のお父様のお位牌もお祈りされているとのこと、すばらしいですね。大切なことと思います。
詳しく霊魂観につきまして、コメントいただきましてありがとうございます。
私も時々に整理して考えています。お釈迦様は一切皆空を説かれたわけですで、あくまでもそれは根底にあっても、それぞれの心が安らぐ法話は大事であると思います。
tera和尚さんのこの頁はコピーしておいて、また学ばせていただきたいと思います。
仏事、供養・回向を施行する僧侶としては、救済すべき魂について、しっかりと説く必要があるのだと思います。
ご専門の風月先生にこのようにコメントいただき恐縮で、また励みになります。こちらこそいろいろ学ばせていただきたいと思います。