風薫るは五月の季語。
桜も散って、日増しに緑が濃くなる四月の爽やかな青空の下、
若葉の萌える色と香しい風を身体いっぱい感じながら疾駆する、
自転車の季節到来。
先週の三坂峠越えに続いて、今週は皿ヶ嶺の山越え。
鈍った身体に鞭打って、滴る汗と息切れ、引き攣りそうな筋肉…
オーバーヒート寸前で、頭から浴びる湧き水のシャワーは爽快。
また少しづつ、身体を造り直して行こう。
あの場所に行きたければ、幾つもの峠を越えなければならない。
身体感覚を伴わない空間移動は、
人の尺度(スケール感)を、何処か歪ませているように思う。
いつまで続くか分からないが…
身の丈にあった。とか、分をわきまえる。
とは、自分が出力可能な身体感覚を知ることだと理解したい。
豊かさや便利さを当たり前のように享受する私たちが失ったもののひとつが、
この「意識と身体が整合性を伴った感覚」だと思う。
本来なら老いという形で私たちは、その身体感覚を失ったことを理解していた。
何もしなくても遠くに移動したり、お腹いっぱい食べられたり、
簡便な充足感が、そこいらじゅうに溢れている現代社会においては、
子供の頃から、この身体感覚を伴わない欲望の充足の中で生きてゆく。
欲望の充足を当たり前のように受け容れた人間の要求は、どんどん膨らんでゆく。
その先に待っているのは、誇大化した自我と現実社会との乖離だろう。
「私は不当に扱われている」「何処かに本当の自分がいる」
という叶えられない自尊意識ばかりが膨らんでゆく。
この瀰漫した怨嗟を歪んだ形で吐き出しているのが
現代社会を覆っている「呪詛」である。
内田樹は、そのように喝破する。
レヴィナスの研究者であり、武道家でもある内田樹は、非常に直観力の優れた人だ。
多少ブラフを噛ましたとしても(笑)その発する言葉には瞠目するような説得力がある。
例えば、現在の教育現場からの声を掬ってみよう。
もともと学校教育の機能のひとつは、子供たちの無根拠に高い自己評価を適切に下方修正して、
身の丈にあった生活設計やキャリアに軟着陸させることにありました。
「身の程を知れ」ということです。
でも現在の教育現場では「君たちには無限の可能性がある」という激励は許容されても、
「身の程を知れ」とか「分をわきまえろ」というアナウンスに対しては強い抵抗を覚悟しなければなりません。
そんなことを、うっかり口にした教師には、生徒や保護者からの
猛然たるパッシングを受ける覚悟が必要です。
でも子供たちの過度に肥大した自尊感情を下方修正して適切な自己評価を受け容れさせることは、
実際には子供たちの潜在的な才能の開花を支援するのと同じくらい重要な教育的課題なのです。
(中略)
教育の場では、「君には無限の可能性がある」という言明と
「君には有限の資源しか与えられない」という言明は同時に告げられなければならない。
矛盾した言明を告げられることで、初めて子供たちの内に「学び」が起動するのです。
では、この「呪いの時代」を生き延びてゆくには、どうしたらいいのか?
それは、このあまりぱっとしない「正味の自分」を、「このようなもの」であり「このようなものでしかない」
自分を受け容れ、承認し、「このようなもの」に過ぎないにも関わらず健気に生きようとする姿を、
「可憐」と思い祝福することが本義である。と、
呪いを解除するには祝福しかありません。
そう結びます。
不寛容な時代を生き抜いてゆくのは、「他力」であり、それぞれの「赦し」なのでしょう…
なかなか難しいけれど、先ずは自分の足元から、
「身の丈を知る」ことからですね…
特に最近は、社会全体が厭なものから目を背ける傾向が顕著ですから。
ここで取り上げた「自分が不当に扱われている」という肥大した自尊心(呪詛)の瀰漫は、
内田樹の独自の見解ではありません。
以前に紹介した小熊英二の「社会を変えるには」の中でも、
民主主義を考える上で重要なキーワード(再帰性の増大)として登場します。
http://blog.goo.ne.jp/toshiaki1982/e/c3e3905618a7cbfa093e20b211f260df
特に現政権になってからは顕著ですね。
もう見てるだけで、いたたまれないくらい恥ずかしい言葉が声高に叫ばれています。
「反日」って何?…あぁ恥ずかしい。
今もっとも民主的な存在である天皇まで反日ですって。
日本の象徴を否定するあなたは、一体何処の国の人?
嫌韓、反中…最近は日本と正反対の道を歩むドイツに対しても嫌独ですって。
加害者になることを極端に嫌う…情けないくらいの逆切れの民族。
一番恥ずかしいのが、あの日本賛美。礼賛(汗)
「日本って、こんなに素晴らしい。凄い。」の大安売り。
人が過剰に反応する時って、実際は、その真逆の状況にあるわけでしょう?
どんどん衰えてゆく、この国に対する「見たくない」という縋るような気持ちと裏返しの恐怖心…
もう、いたたまれないくらい恥ずかしい。
もういい加減、無いものねだりは、やめましょう。
自分の周りを、よく見回して、あるものでやって行くしかないのです。
私も身体にこだわるのは、老いに対する焦りでしょうか?
痛てて…また腰が痛い(汗)
戦前の赤紙を渡す側・・・「おめでとうございます」・受け取る側・・・「ありがとうございます・お国のために戦ってきます」。
表には出さないが、心の内は「ナミダ」です。
高校社会科は大学受験のための量的暗記が勝負です。
近隣諸国・自国の若者等に大きな犠牲をもたらした戦争の「反省」はナシです。
さらに近年、社会科教科書に対する国家の「指導強化」です。
多様な知識を学ぶ機会も激減です。
上意下達文化が静かに深く浸透です。
ヨロヨロ・ヨタヨタの人生航路でしたので発言の資格は
有りませんが、現状には「涙」が出ます。
無限ということはありません。
教育は教える側にとって、無限の可能性などということは、傲慢だと思います。
いかに向上させていくかが、教師の力量でしょう。と偉そうに言えた義理ではありませんが・・・
体力も同じだと思います。
いかに鍛えていくか、過程と結果がすべてです。
良い結果となるよう努力しなければなりません。
最近の教育は迷走状態・・・
入試、教科書問題、機構改革など、すべて悪い方向に向かっているような気がします。
それを教育改革などと言っているような学識経験者という方々は嫌いです。
まっ、そんなことより年をとり、疲れがたまっています。(苦笑)
ランスケさんを見習って運動し、元気にならねば・・・
仰る通りですね。
もう子供たちに自分たちに都合のいい嘘の歴史(ナショナルヒストリー)を教えるのは限界でしょうね。
台頭する中国そして韓国も含めた東アジアの緊張は世界が望みません。
今までは比較的寛容だった欧米が、この日本の歴史観に神経質に干渉するようになってきました。
今度の安倍首相の訪米は、相当の覚悟が必要でしょうね。
NYタイムスやワシントンポストそれに大統領に近いアメリカの高官たちも、
安倍首相の歴史認識に釘を刺しています。
国内のような曖昧な誤魔化しは通用しません。
最近、改めてこの日本の近現代史を再考しています。
あの戦争で日本が徹底的に負けた(無条件降伏)したことは、
どうしても認めたくない日本人最大のトラウマなのですね。
敗戦後、日本人はあらゆる誤魔化しをしてきました。
敗戦を終戦と言い換えること。
そして歴史教育においても、不思議なことに、どの世代の人に聞いても、
近現代史は、ほとんど駆け足で、太平洋戦争の敗戦をまともに教えていないのです。
全世代に共通の体験だとしたら、わざと誤魔化しているとしか思えません。
近頃の子供たちの中には日本がアメリカと戦争したことも、
その戦争で負けたことも知らない子さえいることに愕然とします。
戦争に負けたということは、戦後賠償として加害者の責任を取らされます。
日本の戦争教育や戦争体験の継承は、すべて被害者として発言ばかりです。
原爆体験、空襲体験、沖縄決戦の話、特攻隊の悲劇。シベリア抑留。みんな被害者体験です。
これでは子供たちは近隣諸国から加害者としての責任を問われても、
それを受け入れることができないでしょう。
戦後70年、日本の大人たちが敗戦と向き合わなかったツケ(歪み)が浮き上がってきました。
(日本の大人たちが、厭なことは先送りして真面に向き合わないのは伝統でしょうか?)
このままでは、日本は世界の中で孤立化するばかりです。
春から職場復帰されて、お忙しい中、厄介な話題に巻き込んで恐縮です(汗)
でも、もう限界だと思いますよ。
世界各国の近未来予測でも「中国がアメリカを追い抜く日が来る」というアンケートで、
どの国もYESがNOを上回っています。(アメリカも)
唯一NOが多いのが日本だけという結果でした。
中国や韓国と向き合わないことには、日本の未来はありません。
長い歴史の中で一番近いはずの隣国と憎悪を剥き出しにて対立するのは、
人間の性でしょうか?
ほとんどの民族紛争が、この構図ですものね。
近親憎悪という奴でしょうね。
ままならないという思いが一番強いのは、自分の身体ですね(笑)
なんとか騙しだまし頑張ります。
お互いにね。
これはスピーチライターの谷口内閣官房参与によって練り上げられた原稿の力でしょうか?
アメリカ人の琴線に触れるツボを心得ていますね(笑)
それが、どんなに美辞麗句を並べた真っ赤な嘘でも、アメリカ人の大好きなセンチメンタルのど真ん中。
キャロル・キングのYou´ve got a friendには負けた(笑)
https://www.youtube.com/watch?v=I9vaEBS3l1w