みつとみ俊郎のダイアリー

音楽家みつとみ俊郎の日記です。伊豆高原の自宅で、脳出血で半身麻痺の妻の介護をしながら暮らしています。

ゆっくりゆっくり一つずつ

2014-12-16 12:09:35 | Weblog
家の中でふだん聞かないような大きな音がするたびに心臓が止まるほどビクっとする。
恵子がいつまた転倒してしまわないだろうかとふだんそればかり気になっているせいだ。
ほんのちょっとした「異音(というか,ふだんあまり聞かない音)」がしただけで私の心臓は激しく脈うつ。
夜中に彼女が目を覚ましてベッドから起きトイレに行く時も,こちらは寝たフリをしながら彼女の足音に耳をすます。
畳の部屋のまったくない全てがフローリングの私の家の中で,杖を持ち装具と室内履きの靴で歩く彼女の足音は遠くからでもはっきりと聞こえる。
しかも,足音のリズムで彼女の心理状態が手に取るようにわかるのだ。

今年の3月の彼女の転倒は,大腿骨骨折-手術-再入院という予期せぬ展開となった。
恵子の心は,未だにそこから完全に立ち直ったとは言えない。
しかし,本当の意味での「最悪のシナリオ」は,彼女がもう一度転んでしまう事だ。
片側麻痺の身体では,健常者が無意識に行う「受け身」がまったくできない。
だから簡単に骨折してしまうのだが,この次に骨折してしまうと本当に困った事態を招くことになる。
だから,きっと彼女も必死に歩いているはずだ。
だったら車椅子で移動した方が安全じゃないかという人もいるし,夜中のトイレも一緒に付き添っていけば良いじゃないかという人もいる。
もちろん,車椅子で移動する限りにおいては転倒することはあまりないのだが(まったくない訳ではないけれど),彼女は一生懸命杖で「歩く」ことを学ぼうとしている。
だから,私はワザと彼女の「歩き」に付き添わないようにしている。
そばにいることによって彼女の心の中に(生まれるかもしれない)「甘え」を極力避けたいのだ。
介護というのは,単に「助ける」ことだけが介護なのではなく,「自立する」ことを手助けすることこそが介護だと私は思っているからだ。
彼女が一歩一歩足を前に出すことにどれだけの気力と体力を使っているか(24時間彼女のそばにいて),時に痛々しく感じる時もある。
3月の転倒は,そうした彼女の「努力」と「成果」が,ある意味,災いした「結果」だったのかもしれない。
少し上向き加減だった身体の調子に油断したのか(あるいは焦りなのか),それが思わぬ結果を産んだ。
彼女はいっぺんに「あれもこれも」やろうとしていたようだった。
まったく言うことをきかなくなった右手右足が少しずつでも動かせるようになってくれば,「もうちょっと,もうちょっと」と先に行きたくなるのは人としての自然な感情だ。
そんな気持ちがあればこそ人は「回復」できるのだ。
そんな時に「焦るな,ゆっくりやれ」とことばをかけてもきっと心の奥底では納得のできない気持ちが生まれるだけかもしれない。
きっと「魔がさした」のだろう。
ほんの一瞬の心と身体のバランスの崩れが招いた「転倒」だったのかもしれない。

今朝も恵子は,食卓の椅子に座りながら一生懸命椅子の下に落ちたゴミを杖で片付けようとする。
不用意にかがみこむ姿勢は危険なので注意するようにと言ってあるのだが,潔癖性な彼女,食事をしながら自分の目の下に見えるゴミが気になるらしい。
このままでは拾いかねないので「ダメだよ。あれもこれもしようとしちゃ。食べる時は食べるだけ。ゴミを片付けるならゴミだけに集中しないと」と注意する。
彼女も転倒が身にしみているのか「そうだね。いっぺんにしない方が良いネ」と素直に応じる。
つい先日まで整形外科の医師のことばにショックを受け身体がまったく動かなくなっていただけに,彼女の気持ちはそこから少し脱しつつあるようにも見える。
それ自体はとても嬉しいのだが,3月の転倒もそんな(気持ちが上向いた)矢先に起こっただけに私自身にも言い聞かせるように彼女に言う。
「ゆっくりゆっくり一つずつやっていこうね」。

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