みつとみ俊郎のダイアリー

音楽家みつとみ俊郎の日記です。伊豆高原の自宅で、脳出血で半身麻痺の妻の介護をしながら暮らしています。

MUSIC-HOPE財団設立のためのトークコンサート

2013-04-16 22:08:20 | Weblog
ふだん私は、ブログで自分のコンサートの宣伝をあまりするタイプではないのだが、このコンサートは、ある意味、私にとっても特別な意味を持つコンサートなので, 既に後2週間後(4/28)に迫っているが今日ここでその意味について少しばかり書いておこうと思う。
私は、これまでの40年間のプロ音楽家人生でそれこそ数えきれないほどの演奏体験をしてきたけれども、いつも疑問に思ってきたことがあった。
それは、音楽というのは一体誰のために、何のためにあるのかといったこと。
それこそこれは「私はなんで生きているの?何のために生きているの?」ぐらい根源的な疑問なので、果たしてその疑問にきちんとした答えを用意できる人がいるのかどうかすらもわからないが、それでも私はその疑問をこれまでずっと持ち続けてきたし、今も必死に考え続けている(まだ答えはわかっていないのだから)。
そんな状況でもプロ音楽家である以上、常に依頼主(クライアント)の要求に百パーセント満足の行くような結果を出していかなければならない。
それが演奏であれ、作曲やアレンジであれ、執筆であれだ。
それでもいつもこの根源的な疑問は私の頭から離れることはなかった。
CM曲やTVのBGMを書いていても「この音楽は一体世の中でどのように聞かれていくのだろう?それを聞いた人は何らかの幸福感を味わうことができるのだろうか…?」等々。
レコーディングスタジオに呼ばれて楽器を演奏していても同じような疑問は頭からけっして離れることはなかった。
「アレンジャーやプロデューサーの言う通りに演奏してお金をもらうだけで自分の感情なんかどこにも入る余地のない私のこの演奏に一体どれほどの価値があるのだろうか…」。
さらにキャリアを積み重ねれば重ねるほどこの疑問はもっと違う形で膨らんでいった。
プロデューサーとしてアーティストのレコーディングを監督する立場になるとその疑問はなおさら膨れあがっていったのだ。
何度も何度もテイク(録音)を重ね、演奏の良いところだけをツグハギして完成させるCD制作の作業は、一回こっきりのライブ演奏とはまったく違う、何か「ウソの音楽を作っている」のような気持ちになって何とも言えないやるせなささえ感じるようになっていた(あるレコード会社の先輩から聞かされた「美空ひばりさんのレコーディングはたった一回こっきりのテイクでいつも完璧だった」というウソのようなホントの話に、自分のしていることに対する焦燥感は募るばかりだった)。
そんな私は、ある時からレコーディングの現場をできるだけ離れ、ライブ演奏の方に自分の力をシフトしていくようになっていった。
音楽は演奏する人と聞く人が同じ場所同じ時間を共有してこそ「本物のコミュニケーションができる」、そう感じたからだった。
そう、私の答えはここにあったのだ。
「音楽はコミュニケーション」。
音を出す人間とそれを受ける人間との間の心の交流(コミュニケーション)こそが「音楽」だと、また再びライブ活動を始めてから心底思えるようになっていた。
しかし、それでも百パーセントの満足はできなかった。
やはり、どこか「自己満足」のような気分がぬぐえなかったからだ。
自分のやりたい音楽、表現したいものをお客さんに聞いてもらって何が悪いの?どこが悪いの?そんな声も確かに聞こえていた。
もちろん、音楽を作る人、受ける人の間のコミュニケーションが百パーセント満足の行く心の交流であるならば何も言うことはないだろう。
しかしながら、一人の音楽家と百人、千人の聴衆の間にそんな百パーセントの心の交流などあり得るのだろうか?
プロとして音楽を生業にしてきた以上、資本主義経済の枠の中で音楽を制作していく必要があった。
だから、そんな青臭い理想などどこかに忘れていかなければプロ音楽家として生活することなど到底できないのであって、まがりなりにも、これまでの40年間音楽でちゃんと生活ができていたということは、やはりそんな経済の論理に組み込まれたからこそできていたのだという人もいる。
しかし、それでも私はいろいろなことと闘ってきたような気がする。
「音楽はコミュニケーション」という自分の考えをつらぬくために、時に大きな放送局のCPとやりあって始末書を書かされたこともあったし、大きな代理店のプロデューサーと喧嘩になったこともあった。
ただ、そろそろ音楽の本当の意味と自分の音楽人生が一体何だったのかをきちんと整理して残していかなければいけない時期にきているのではないのか。
そんな私の背中を押してくれたのが妻の病気だった。
自分の最愛の人が脳卒中で倒れ、半身が麻痺したことによって人間の身体や脳がどれだけ大切なものかを痛いほど知らされた。
そして、同時に、音楽の大切さとそれが人の身体や心にどれだけ深く関わっているのかも知らされたのだった。
だからこそ、「音楽と人の身体と心の関係の秘密」を自分一人だけでなく、多くの人たちと(音楽家だけでなく、お医者さん、看護士さん、介護士さん、療法士さん、スポーツ科学者、スポーツインストラクター、その他、いろいろな人たちと)一緒に真剣に考える場を作ってみたいと思ったのだ。
そうでなければ、音楽はこのまま「単なる嗜好品」で終わってしまう。
そんな焦燥も私の中にはあったからだ。
もともと音楽を人間が発明した時、音楽にはいろいろな意味があったし、目的があったはずだ。
子守唄は子供を安心して寝かせるために全てのお母さんが即興で作っていたはずのもの。
大昔から「シューベルトの子守唄」や「ブラームスの子守唄」があったわけではない。
それに音楽は人間の動作と直接結びついているもの。
軍隊の行進に行進曲が必要なように、人の労働を効率よく行うためにさまざまなワークソングを人々は作っていった。
ゴスペルは、ある種、讃美歌とワークソングの両方の目的を持っている。
なのに、ここ数百年の間に(特に二十世紀以降)音楽は多くの人々にとって「嗜好品」になってしまった。
つまり、コーヒーや紅茶と同じように「クラシックが好きか、ロックが好きか、ジャズが好きか」という風に、音楽は人の「好みの対象」になってしまったのだ。
もちろん、ビートルズが好きでもいいし、ベートーベンが好きでもエリッククラプトンが好きでもAKBが好きでも良いが、音楽というのはそれだけのものじゃない。もっともっとすごいもの。私はずっとそう思ってきた。
だからこそ、この40年間ずっとめげずに音楽家としてのキャリアを全うしてこれたのだった。
そして、今その音楽の大切さを社会に向って発信するための新たな活動を始めようとしている。
それが、今度のコンサートの最大の目的である「MUSIC-HOPE財団」を設立することなのだ。
この財団の設立目的は、「認知症などの人の認知機能回復、身体麻痺などの人の行動機能回復のために果たす「音楽」の効果とその役割を、音楽、医療、介護、リハビリ、スポーツなどの分野の専門家が互いの知識、経験を共有しネットワークを作り包括的に研究、実践、啓蒙して社会へ役立てるための活動を支援していくこと」だ。
つまり、音楽を軸にしたさまざまな分野のスペシャリストたちネットワーク作りが一番の目的なのだ。
音楽家が音楽のことだけ考えていると「自己満足」に陥りやすい。
当たり前の話だ。
だから、もっと広い視点で多くの人たちが本当の「音楽の力」を探っていこうよ。
私はそう呼びかけているつもりなのだ。
このコンサートの詳細は下記を参照されたい。
http://www1.linkclub.or.jp/~flute/live_4_28.html

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