みつとみ俊郎のダイアリー

音楽家みつとみ俊郎の日記です。伊豆高原の自宅で、脳出血で半身麻痺の妻の介護をしながら暮らしています。

初めての転倒

2013-06-25 13:44:54 | Weblog
恵子がここ一週間のうちに二回も転倒してしまった。
一回目はベッドの脇で、二回目は病院に行こうと玄関から車に乗り込む時だった。
朝倒れた時は、こちらは眠っていたので「その物音」にびっくりして目を覚ました。
叫び声と泣き声がないまぜになった悲鳴に「一体何事が起きたのか」と寝ぼけた頭で何が起きたかと瞬時に理解するのは難しかった。
この転倒は、彼女が病気を発症して以来初めてのことだったので、私もびっくりしたが、それ以上にショックだったのは彼女の方のようだ。
リハビリそのものは順調に来ていて理学療法士の先生も「もうすぐ装具を取っての歩行も可能ですね」といった具合に話してくれていた矢先の転倒だった。
油断、したわけではないと思う。
逆に、彼女の足を引っ張る何かが彼女の頭にあったのかもしれない、と思っている。
人間が転倒する時、必ず「バランス」と「集中」を崩す何かが存在しているはずだ。
何かにひっっかる、何かにつまずく、何かが現れて驚く、といった要素があって初めて人は転倒する。
もちろん、彼女のように片足不自由で杖をついている人間は、そうならないように杖とのバランスと両足の出し方のテンポとリズムには細心の注意を払っている。
そうしなければ、麻痺した身体はいとも簡単にこけてしまうからだ。
それでも、彼女はこれまでの一年半以上一度も転倒しないでこれた。
ということは、彼女なりの「集中」があったはずだ。
その彼女から「歩行への集中」を奪ったのは、おそらく彼女の家庭の事情だったのだろうと思う。
つい数週間前から彼女の情緒が急に不安定になっていた。
それは、彼女の弟から受けた一本の電話がキッカケだった。
その内容を彼女に伝えた時から彼女の心の中の動揺が始まった。
きっと、夜寝る時もそのことを四六時中考えているのかもしれない。
なかなか寝付かれないし、寝付いてもすぐに起きてしまうようだ。
そんなフラフラした頭と身体で歩こうとしている最中に足が突然「リズムを崩して」そのまま身体が倒れてしまったのだろう。
健常者が転ぶのと身体の半身が麻痺している人間が転ぶのではワケが違う。
私たち健常者はどんな状態で倒れても自然に「受け身」をして身を守る。
長い間の二足歩行の中で私たちのDNAの中にしっかりと刻み込まれた防衛本能がそうさせるのだろうが、身障者にはそれができない。
なにしろ身体の片側が言うことがきかないのだから、倒れる時はそのまま麻痺した側に倒れこんでしまう。
だから、この病気には二次的な危機として骨折の恐怖がいつもそこにある。
何にも筋肉のない麻痺した側の骨は簡単に折れてしまうのだ。
幸い、恵子は打ち身だけで済んだけれども、これが度重なるとどんな重大な事態にならないとも限らない。
転倒のショックはずっと尾を引いているようで、昨日予定されていた通院リハビリもキャンセルしてしまった。
「行けない、無理」と彼女が訴えたからだ。
多分、無理矢理連れていってもあまり良い結果は期待できないと思った私はそのままキャンセルの電話を病院に入れた。
「病は気から」とはよく言われていることばだが、このことばが実感として感じられるのは、病気になっている本人かその回りの家族なのではないかと思う。
彼女のような身体のリハビリは一見フィジカルな状態を回復させていくことだけが目的だと思われがちだが、その根本にあるのはやはり「心の問題」ではないのだろうか。
彼女自身が「心の平安」を回復しない限り身体の回復も望めない。
身体と心がバランス良く回復に向っていた矢先に、ほんのちょっとした家族からの「思いやりのない」ことばが患者の心のバランスを崩してしまい、全てが「負のスパイラル」に陥ってしまったからだ。
先日の友人から送られてきた絵のこともそうだし、今回の彼女の家族のことばもそうだし、友人の「慰め」や「何気ない普通のことば」が、心や身体が普通でない状態の人の心をどれだけ苦しめてしまうのかということを健常者は常に考えておくべきなのかもしれない。
だからといって、やはり私も含め健常者が本当の意味で身障者の気持ちになることはできないし、それはきっと無理なのだと思う。
私のようにごく身近に身障者を抱えているからこそそれは「無理」だと実感できるが、離れている人、生活の実態を良く理解できていない人はわりと安易に「慰め」のことばをかけようとしてしまう(悪気はなく)。それがどんな影響を及ぼすかはわからずに。
私も、最近やっとわかってきたような気がする。
恵子のような重篤な病気の患者と暮らす上で一番大事なのは、「何とかしてあげよう」とするのではなく、常に「そばにいて」「話を聞いてあげる」ことだけなのではないか、と。
本人以外にできることはそれだけだし、それ以上のことをする必要もないのだと思う。
私が彼女の「苦痛」を感じてあげることはできないし、「彼女の人生」を代わりに歩むこともできないのだから。
せめて私だけでもそばにいてあげなければ、彼女は「苦痛」を訴えることすらできなくなってしまうではないか。

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