会派「かけはし」は県外調査を実施しました。
鳥取空港を29日午前7時5分に離陸する全日空292便に搭乗し、東京でJR新幹線「はやて」に乗り継ぎ、仙台駅でレンタカーを借り、一路石巻へ向かいました。
午後2時、鳥取を出てから7時間余り。最初の調査地「日和山公園」に到着しました。江戸時代の俳人松尾芭蕉も、この地を訪れ、奥の細道に「金花山、海上に見わたし、数百の廻船につどいひ、人家地をあらそいひて、竈の煙立つづけたり」と書き記している景勝の地ですが、今日は文学散歩で来たのではありません。石ノ森萬画館を石巻市に誘致し、まんがをモチーフに街作りを進めてきた阿部紀代子さんと、お会いして話をお聞きしたいとお願いしたところ、ここが街を一望できるので、ここで会いましょうと言われたらからです。
青い空に白い入道雲が浮かび、真夏の太陽が照りつけていました。その下には津波で建物や街路樹が流され、雑草だけが生えた石巻の街が広がっていました。
阿部さんは「震災後、3日目になって、社員や友人を捜しに、ここに登って来ました。海岸線に近い高台はここだけ。多くの市民がここに逃げてきていました。街を見わたすと、まだ火災の煙で、煙ったようでした」と話していただきました。お互いがお互いを探してぐるぐる回ったんだそうです。10分前に居ても、動けば会えません。そこで、伝言板を作ろうと思い立ったのですが、店の文房具はみな1階に置いていて、流されてできなかったんだそうです。
「ここに避難した人たちは当初は食糧がなく、最初に配られたのは豆腐と油揚げ。油揚げをどうして食べたのでしょうかね」と阿部さんは話を続けます。この地区には市立の女子高校、県立高校、2つの中学校があり、避難所になったのですが、1袋のかっぱえびせん、1個のカップヌードルを家族で分けて食べていたそうです。「流されていく家族を何の手立てもなく、見ているしかなかった方も多いようです」とも話されました。実は被災から約2日間、石巻市は交通が遮断され、携帯と有線の電話も途絶し、外界から孤立し、情報を全く発信できなかったんだそうです。その結果、東松山市や南三陸町には救援物資が早い時期に届いたのに石巻には届かなかったそうです。確かに混乱と騒擾の最中だったと思いますが、全県に目配りをするのが県の役目です。鳥取県も他山の石にしてはならないと思いました。
ポツンと見える大きな建物が市立病院です。
地震と津波で機能が喪失し、今は仮設住宅がある地域で、仮設の診療所として治療活動を続けているそうです。「津波で電源を失ったため、懐中電灯で手術を続けたんだそうです」と阿部さん。
瓦礫の山も見えます。津波で出た瓦礫は、通常の石巻市なら100年分以上にもなるそうです。
津波で流されて廃車になった自動車も山積みです。
「今でもそこ、雑草で緑に見える地域は、震災前は住宅が所狭しと立ち並んでいました。震災直後は泥で、灰色一色の街でしたよ」と阿部さん。阿部さんが誘致した石ノ森萬画館の白い建物が残っていますが、周囲には自由の女神像を除いて何もありません。
すべて、津波が持っていったのです。阿部さんが、待ち合わせの場所をここに選んだ訳がよく分かりました。
阿部さんには南浜地区も案内していただきました。火事で廃墟と化した門脇小です。
校舎脇の階段から高台へ逃げ、登校していた児童の被害はなかったそうです。校舎の時計は錆びたまま、針が止まっています。校舎に「門小ガッツ」と書かれていました。子どもたちが書いたのでしょうか、復興へ向け、子ども達も頑張っているんだなと感じました。
校舎の前で、自分で被災した状況を撮影した写真を売っていたのは阿部美津夫さんです。
車の中に娘さんが取り残され、阿部さんに手を振りながら車ごと津波に流され、亡くなったのだそうです。阪神大震災で被災した神戸で育てられていたヒマワリの種をもらってきて、石巻に撒いて育てているのだそうです。「鳥取に持って帰って来春植えてくれんか」と言われ、ヒマワリの種をもらいました。娘さんが生きていた証として全国に広げたいという父親の思いが胸を打ちました。
阿部さんの本業は大正2年創業の鰻屋「八幡屋」さんです。
建物も津波に襲われ、2階へ上がって難を避けたそうです。「店の前の道路を津波が壁になって通り過ぎて行きました。津波が引き波になって速度が落ちると、道の左右に流れ込んでくるだろうと思いましたが、その通りになりました」と阿部さん。1階が水浸しになり、水位がさらに上がるので、2階へ上がり、これ以上上がるなら屋根へ逃げなければと思ったそうです。今は外壁を修復し、店は再開されています。
道路を挟んで店の反対側になるのが「まちなか復興マルシェ」です。
ここで、この市場を立ち上げた石ノ森萬画館の指定管理者だった株式会社「街づくりまんぼう」の西條允敏社長からお話を聞きました。
以下はその概要です。
瓦礫、汚泥の撤去は昨年度内にだいたい終わった。しかし、お店で再開したのは30%くらい。新しく店を開けない、今のままでは辞めなければいけない、そういったお店を埋めないと、街は戻らないんです。それで昨年12月、街なか創生協議会を立ち上げた。民間主体で、すばやく、美しい街をつくるのが、その目的です。定住人口、交流人口を増やすことが最大の課題。そのキーワードは川、食、歴史と思っている。まちなか復興マルシェは短期計画。そして、ここ、中央2丁目11番地の街区再開発が中・長期計画だ。プチ市民プロジェクトも立ち上げた。私たちとみなさんのように縁を持った市外の人たちに登録してもらって応援団になってもらおうとう試みだ。
西條社長たちは11月の国際まんがサミットで鳥取を訪問する予定だそうで、再会を約して分かれました。
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