知床の遊覧船が事故ってから、はや10日が経ちます。
ニュースを見ている限り、収益優先のブラック社長が招いたものとしか思えません。
事故にあわれた方々はお気の毒でしょうがないです。
私は、知床には48年前に行ってます。
下の地図のように自転車で約3週間行ってました。
積丹半島、宗谷岬、根室半島、襟裳岬、函館など突端を制覇しながら動きました。
当時の写真はあまり残ってないですが、下記の写真はオホーツク海沿岸の猿払村にある
インディギルカ号遭難者慰霊碑です。自転車ツーリングの途中、ここでキャンプしました。
インディギルカ号遭難者慰霊碑のモニュメント ↓
この慰霊碑は昭和14年12月、旧ソ連の貨客船「インディギルカ号」が座礁転覆した際に失われた
700名以上の貴い命を悼み、昭和46年に建立されたものそうです。
私たちが昭和49年に訪れてますのでできたばかりの頃なのですね。
改めて考えてみると、村民総出で約400人を救出したとのことなのに、
終戦時のソ連の所業は恩知らずの極みで、ウクライナ侵攻などにもつながるあの国の性格なのかもしれません。
閑話休題
知床ではウトロから知床岬を廻る観光船に乗り、羅臼で降りました。
観光船といってもフェリーのようなもので、沖合を航行しました。
2003年8月17日にアップした記事からです。
『大学3年の夏、北海道へ長期ツァーへ出かけた。
もちろん大学サイクリングクラブでのキャンピングツーリングである。
知床の宇登路から知床岬を廻る観光船に乗って羅臼で降りたときのこと。
降りていく私たちと入れ違いに観光船に乗ってくる女の子が2人いた。
そのうちのひとりはどこかで会ったような気がした。
とっさに声をかけようかと思ったが、こちらは男ばかり5人、むこうは女性2人。
しかも乗船・下船のあわただしいさなかのことでその子の名前が思い出せない。
仕方なく、声をかけずに降りた。
走り出してから「しまった。高校のときの○○さんや!」
思い出した私に、ツァーのメンバーは「何で声をかけん!勿体ない」
と非難ごうごうであった。
それから29年たった昨日、高校の同窓会があった。
羅臼の港ですれ違ったと思われる○○さんも出席していた。
さりげなく、いや、ズバリ確かめてみた・・・
やはりそうだった。彼女は知らなかっただろうが、
1974年8月5日の出来事だった。』
という若気の至りのような話でした。
その時思い出せなかったおやじどの
アウトッ!
・・・でも いいハナシですね~。
同窓会で確認され事実だと判ったなんて。
まさに劇的な瞬間!
「あの時 気が付いて声をかけてたら」
また違った人生だったでしょう、絶対!
そう思うとコワイものです。
ホンの一瞬のデキゴトが。
そうなんです。
マサカの出会い!!でした。
そんな奇貨をものにできなかったのが運のツキ。
まさにほろ苦い思ひ出でした。