むかし1500年代、山梨・甲斐に武将がいた。
武田信玄。
信玄に(1561年年)9月、子供が生まれ、
子の母は側室の「油川ご寮人」
生まれつきの美人で名は「松姫」。
松姫の生涯の恋人は、織田信忠。
生涯顔を見ることなく、
武田家と小豪族のこわっぱ、
織田信長の嫡男、奇妙丸(信忠)婚姻を結んだだけ。
松姫7歳、信忠11歳の時であつた。
が、時代は1567年。
信玄全国制覇をもくろんでいた時である。
遠江の三方が原に出撃、徳川軍と一戦を交えることに。
これが松姫の不運の始まり。
織田が徳川に三千の援軍を出したということが信玄に伝わり、
怒り狂っ信玄は、織田に絶縁状を叩きつけ、
婚約は解消。信忠15歳。松姫11歳の時だった。
9年の歳月が経ち。
恋人、織田信忠は、武田軍の要塞、
信州伊那の高遠城を攻め落とす勢い。
織田・徳川連合軍に追い詰められた、
腹違いの兄、勝頼は、高遠城に入っていた、松姫に、
盛信の娘(督姫)と、
勝頼の娘(貞姫)、
人質である小山田信房の養女、4歳の香具姫らを連れて、
十数名の供とともに甲州路の東へ向かわせるのであります。
勝頼が味方の裏切りもあり、
天目山麓の田野で自刃し、武田が滅亡した頃、
織田軍の残党狩りは、村人達も、
山奥深くまで逃げ込むほどの熾烈さのなか、
松姫ら4人とともは、大菩薩峠を越えて、
険しい甲武国境の山並、寒さや雨、幼女をかかえ、
松姫は大きな試練に耐えぬいて、
武蔵に落ち延びた来たのであります。
その道は、今なお、云い伝えられて、いるだけ・・・・。
松姫・・・この時20歳!
峠までの道は、危険な状態の時期、登れません。
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