唐突ですが、お伽衆でもシェヘラザードでもいいんですけど、ああいう自分専属で「おもしろい話」をしてくれる人がいるってすごく贅沢だと思うんですね。小説は書き手の都合で決まりきった話を押し付けてくるだけだし、ゲームなんかのマルチストーリーといっても読み手が選らばなきゃいけない。今夜はこんなお話がいいでしょうと聞き手の気分を察して話をしてくれるわけじゃない。今のIT技術をもってすればそういうソフトなり、ロボットができるかもしれませんが、人を雇った方が安上がりでしょう。でも、そういう職業って聞いたことないですね。いてくれればいいと思うんですが。……もしかしたら一生かかっても使いきれないくらいの財産に倦んでる大金持ちがお伽衆を密かに抱えているかもしれません。秘書でも愛人でもビジネスパートナーでもなく、そんな実際的な役割は何もなくてひたすら退屈しのぎの話をしてくれる。日本でなくてもどこかの国にいるような気もします。
私に限らないと思うんですが、テレビを見るのも本を読むのもネットサーフィンするのもかなりの部分は「おもしろい話」を求めているからでしょう。ニュースについてブログを書いてる実感で言うと、ガソリンの値段が上がっただの株価が下がっただのっていう実際的なニュースよりは、タレントがどうしただのスポーツ選手がこうしただのといった純粋におもしろいだけ(少なくとも私にとってはそうです)の話題の方が人気があるようです。天災・人災もろもろの事故や殺人を始めとした様々な事件のニュースにしても、報道される量は実際上の必要性よりも好奇心をそそるかどうかが決定している気がします。今はフィクションと事実を峻別しないといけないみたいで、小説と週刊誌の記事は別ものなんでしょうけど、読む側の動機としてはそうも違わないように思います。
豊臣秀吉の周りにいたお伽衆が新聞の政治面のようなことばかり話していて、シェヘラザードがシャーリアール王に絵本のようなお話だけをしていたと考えなくてもいいんじゃないかと思います。本当の話にウソが混じり、架空の話が現実と結びつくことで、共感や教訓が増すんじゃないかって言うと今はなんだか危険思想の持ち主のように思われかねないんですが、真実を述べるとかウソを吐くとかいうことにあまり関心はなくて、お話をどう語るかの方が私としては興味があります。
先日、有名な落語家が十八番の「らくだ」を演るっていうのがラジオから流れた時に、たまたま落語を全然知らない人がいました。その人には同じ人が同じ演目を繰り返し演るっていうのが不思議だったようです。そこは演劇やオペラのレパートリーで説明して、なんとか納得してくれましたが、ほとんど同じことをしゃべってるのを繰り返し聴く人がいるっていうのが信じられないようでした。頭でこしらえた理屈では細かい語り口の違いや工夫とかで説明はできますが、寄席にはほとんど行ったことのない私も同じギャグで笑えるのかと訊かれると心許ない感じです。いかに語るかが大事とは言ってもやっぱり聞いたことのない話の方がおもしろいでしょうね。
ラジオって自分一人に語りかけてくれるようなメディアだと思います。夜中に眠れないでいる老人や客が拾えないで都会を流しているタクシーの運転手などに深夜ラジオが人気があるのはよくわかります。穏やかでかすかなユーモアが漂う年配のアナウンサーの声はそうした人たちのお伽衆じゃないかなと思います。男性でも女性でもいいんでしょうが、あまり高い声は向いていないでしょう。ずっと昔の恋人の声のようにやや低くて温かみがあるのが好ましいように思えます。
すると新鮮で、興味をそそる実話めいたお話を巧みな語り口で毎晩毛布でくるむような声で語ってくれる人というのが私の理想ということになります。でも、どうしてそんなことを考えるんでしょう。この記事にあるように職場で自分をみじめに感じていて、癒しだか慰めだかを求めて?……もちろんそうでしょう。「みじめな仕事の3つのしるし」なんていう本がイギリスでじゃかすか売れてるなんて素敵なことだと思いましたから。それ以上にこのルーシー・ケラウェイのコラムはいつものことながらとても魅力的です。働く意味、生きる目的を深く考えるなんて危険なことだ、まあまあの楽しみを人に与えられ、自分もまあまあ楽しければそれで人生には十分意義があるっていいですね。3か月に1回は聞きたい言葉です。
癒しっていうといろんなものが癒してくれそうですが、慰めっていうと人じゃないかなって思います。いや、うちのイヌやネコが慰めてくれるって言う人がいるかもしれませんが、まあそういう擬人化できるものが限界でしょう。本当は慰めてもらいたいのにそれを家族や他人に求めることはできない、だから癒しということで曖昧にしている、その方が商売のネタにもなる、そんな手の込んだ孤独を感じます。
さて、長くなってしまいましたからそろそろ終わりにしましょう。おそらく気づいた人はいたと思うんですが、私がなぜ書くのか、何を書くのか、どんなふうに書くのかということをお伽衆をネタに書いたわけです。自分で自分のためのお伽衆をするって考えると、書くという孤独で湿っぽい行為がちょっとやわらぐような気がします。……あ、そうそう、画像はこの文章の内容とは全然関係なくて、ふと撮ったものを掲げただけです。
私に限らないと思うんですが、テレビを見るのも本を読むのもネットサーフィンするのもかなりの部分は「おもしろい話」を求めているからでしょう。ニュースについてブログを書いてる実感で言うと、ガソリンの値段が上がっただの株価が下がっただのっていう実際的なニュースよりは、タレントがどうしただのスポーツ選手がこうしただのといった純粋におもしろいだけ(少なくとも私にとってはそうです)の話題の方が人気があるようです。天災・人災もろもろの事故や殺人を始めとした様々な事件のニュースにしても、報道される量は実際上の必要性よりも好奇心をそそるかどうかが決定している気がします。今はフィクションと事実を峻別しないといけないみたいで、小説と週刊誌の記事は別ものなんでしょうけど、読む側の動機としてはそうも違わないように思います。
豊臣秀吉の周りにいたお伽衆が新聞の政治面のようなことばかり話していて、シェヘラザードがシャーリアール王に絵本のようなお話だけをしていたと考えなくてもいいんじゃないかと思います。本当の話にウソが混じり、架空の話が現実と結びつくことで、共感や教訓が増すんじゃないかって言うと今はなんだか危険思想の持ち主のように思われかねないんですが、真実を述べるとかウソを吐くとかいうことにあまり関心はなくて、お話をどう語るかの方が私としては興味があります。
先日、有名な落語家が十八番の「らくだ」を演るっていうのがラジオから流れた時に、たまたま落語を全然知らない人がいました。その人には同じ人が同じ演目を繰り返し演るっていうのが不思議だったようです。そこは演劇やオペラのレパートリーで説明して、なんとか納得してくれましたが、ほとんど同じことをしゃべってるのを繰り返し聴く人がいるっていうのが信じられないようでした。頭でこしらえた理屈では細かい語り口の違いや工夫とかで説明はできますが、寄席にはほとんど行ったことのない私も同じギャグで笑えるのかと訊かれると心許ない感じです。いかに語るかが大事とは言ってもやっぱり聞いたことのない話の方がおもしろいでしょうね。
ラジオって自分一人に語りかけてくれるようなメディアだと思います。夜中に眠れないでいる老人や客が拾えないで都会を流しているタクシーの運転手などに深夜ラジオが人気があるのはよくわかります。穏やかでかすかなユーモアが漂う年配のアナウンサーの声はそうした人たちのお伽衆じゃないかなと思います。男性でも女性でもいいんでしょうが、あまり高い声は向いていないでしょう。ずっと昔の恋人の声のようにやや低くて温かみがあるのが好ましいように思えます。
すると新鮮で、興味をそそる実話めいたお話を巧みな語り口で毎晩毛布でくるむような声で語ってくれる人というのが私の理想ということになります。でも、どうしてそんなことを考えるんでしょう。この記事にあるように職場で自分をみじめに感じていて、癒しだか慰めだかを求めて?……もちろんそうでしょう。「みじめな仕事の3つのしるし」なんていう本がイギリスでじゃかすか売れてるなんて素敵なことだと思いましたから。それ以上にこのルーシー・ケラウェイのコラムはいつものことながらとても魅力的です。働く意味、生きる目的を深く考えるなんて危険なことだ、まあまあの楽しみを人に与えられ、自分もまあまあ楽しければそれで人生には十分意義があるっていいですね。3か月に1回は聞きたい言葉です。
癒しっていうといろんなものが癒してくれそうですが、慰めっていうと人じゃないかなって思います。いや、うちのイヌやネコが慰めてくれるって言う人がいるかもしれませんが、まあそういう擬人化できるものが限界でしょう。本当は慰めてもらいたいのにそれを家族や他人に求めることはできない、だから癒しということで曖昧にしている、その方が商売のネタにもなる、そんな手の込んだ孤独を感じます。
さて、長くなってしまいましたからそろそろ終わりにしましょう。おそらく気づいた人はいたと思うんですが、私がなぜ書くのか、何を書くのか、どんなふうに書くのかということをお伽衆をネタに書いたわけです。自分で自分のためのお伽衆をするって考えると、書くという孤独で湿っぽい行為がちょっとやわらぐような気がします。……あ、そうそう、画像はこの文章の内容とは全然関係なくて、ふと撮ったものを掲げただけです。
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なんかいろんなものがあるサイトです。
なんかいろいろしゃべります。
「また聞かせてくださいな」なんてうれしいお言葉ですね。実際、お伽話をするための準備体操みたいな文章ですし。
夜伽、ていうのもあるくらいだし、シェヘラザードにしても何か怪しい雰囲気お漂いますね。
おとぎばなし、ていうと子供向けのようだけど、「お伽草子」もきっと大人のものだったでしょうしね、「グリム童話」が本来大人相手におもしろおかしく語り継がれていたものが起源なのと同じように。
さてさて、自分のために自分のお伽話を気分よく語ることができたら、また聞かせてくださいな。