10:18長岡に着けり。
駅前に出て写真を撮りぬ。
長岡の偉人を挙げるも浅学菲才にして半分も知らず。
10:38発新潟経由吉田行きに乗車す。
当初は新潟にて昼食を摂らんとすれど、やや変更し、新津にて40分待ちなれば食し、而して再び待ち時間を利用して新発田をば訪れ、村上と向かわんこととす。
路線図上はかくの如きが素直なれども村上着は同じなり。
しかれども長岡、新潟などの都市よりも新津、新発田が如き町が短時間の滞在にふさわしからんが故なり。
あ、これはマスネーかと感じぬ。
彼もまた深き感銘をば与えし作曲家にあらねどパリの情緒を湛えし表情は好もし。
思えらく個性豊かなる人とさほどなき人とあり。
ベートーヴェン、ヴァーグナー、ブルックナー、マーラー或いはショスタコーヴィッチらが前者なり。
一聴にして彼らの作と判別すべきが所以は独創的とも灰汁強きによるとも言えり。
バッハ、モーツァルトは如何。
バッハにはヘンデル、コレルリ、テレマン、ブクステフーデなど、モーツァルトにはバッハの息子ら、ハイドン兄弟、シュポア、シュターミッツら類似の曲調・曲想なる人多し。
然るに彼らが個性は画たるものにして歴然たる差あり。
これを言葉にするは容易ならざらんも、バッハにおいては内省せり愉悦と呼ばん。
モーツァルトにては空を舞い踊る鳥が如し。
そは彼らとその同時代人を種々聴きて感じしことなり。
或いは聴き始めたる頃に直観せしを徐々に確かめたる40余年ならん。
さるにても腹の空けり。
朝食の折、時間はなけれども茹で玉子を2つ作りしが水上過ぎとここにして食せるも腹応えなし。
10:45押切、次なるは見附とかや。かかる一面田圃の真ん中に城のあるとも思えず。
この電車の行き先吉田は新潟より直江津方面に行きし駅にして鉤が如き運行なり。
既に6時間以上概ね車中に座りたれば新津までの1時間余を持て余したり。
吾人は所謂乗り鉄にあらず、さりとて新幹線・飛行機のみにて行くよりは鈍行列車を好む。
一つは勝手気儘なしうるが故、一つは車窓を楽しめるが故ならん。
しかるにいつの間にか小雨降りたる景色はただの田舎なり。
平凡なる生活あるのみにて感興乏し。
古津の次が新津なるも海より離れしに訝し。
向かい席が男は二眼レフを持てり。
かくの如く記さるるのみにても本望ならんや。
あれこれいちゃもんをつけるも空腹がためなり。
新津に着けり。
駅前は嘆声が出でしほどのシャッター通りなり。
旧盆なりといえども営業したる店十指に足らず。
侘び寂びの探訪を終え、入りし店は壁全面が油に汚れ、ちゃんぽんを謳うも日本そば、カレー、ハヤシ、うな丼、カツ丼もメニューにありて昭和の空気充満す。
化粧濃き婆が注文を取り、息子ならん主人がおかもちを提げて出て行きぬ。
嫁ならんが大いなる西瓜を提げ、始終騒ぎし息子2人と何やら話せり。
壁を見遣るにSLばんえつ物語のポスター多く、色紙も例の如くありて世界のナベアツがサインを見つけしにいとふさわしと苦笑す。
あと1人の客はミックスフライ定食を疾うに食せるに吾人の頼みし皿うどんは一向に出ず。
そろそろ乗り継ぎ列車が気になる頃合に婆がちゃんぽんや皿うどんやと尋ねしに呆れつつ、断るにすぐに供すと言えるは熟練なり。
果たして間を置かずに面前に来るものはとろみあるちゃんぽんが如き代物なりて妙に感心せり。
待ちし時間の半分ほどで食し、店を出ず。
駅前に出て写真を撮りぬ。
長岡の偉人を挙げるも浅学菲才にして半分も知らず。
10:38発新潟経由吉田行きに乗車す。
当初は新潟にて昼食を摂らんとすれど、やや変更し、新津にて40分待ちなれば食し、而して再び待ち時間を利用して新発田をば訪れ、村上と向かわんこととす。
路線図上はかくの如きが素直なれども村上着は同じなり。
しかれども長岡、新潟などの都市よりも新津、新発田が如き町が短時間の滞在にふさわしからんが故なり。
あ、これはマスネーかと感じぬ。
彼もまた深き感銘をば与えし作曲家にあらねどパリの情緒を湛えし表情は好もし。
思えらく個性豊かなる人とさほどなき人とあり。
ベートーヴェン、ヴァーグナー、ブルックナー、マーラー或いはショスタコーヴィッチらが前者なり。
一聴にして彼らの作と判別すべきが所以は独創的とも灰汁強きによるとも言えり。
バッハ、モーツァルトは如何。
バッハにはヘンデル、コレルリ、テレマン、ブクステフーデなど、モーツァルトにはバッハの息子ら、ハイドン兄弟、シュポア、シュターミッツら類似の曲調・曲想なる人多し。
然るに彼らが個性は画たるものにして歴然たる差あり。
これを言葉にするは容易ならざらんも、バッハにおいては内省せり愉悦と呼ばん。
モーツァルトにては空を舞い踊る鳥が如し。
そは彼らとその同時代人を種々聴きて感じしことなり。
或いは聴き始めたる頃に直観せしを徐々に確かめたる40余年ならん。
さるにても腹の空けり。
朝食の折、時間はなけれども茹で玉子を2つ作りしが水上過ぎとここにして食せるも腹応えなし。
10:45押切、次なるは見附とかや。かかる一面田圃の真ん中に城のあるとも思えず。
この電車の行き先吉田は新潟より直江津方面に行きし駅にして鉤が如き運行なり。
既に6時間以上概ね車中に座りたれば新津までの1時間余を持て余したり。
吾人は所謂乗り鉄にあらず、さりとて新幹線・飛行機のみにて行くよりは鈍行列車を好む。
一つは勝手気儘なしうるが故、一つは車窓を楽しめるが故ならん。
しかるにいつの間にか小雨降りたる景色はただの田舎なり。
平凡なる生活あるのみにて感興乏し。
古津の次が新津なるも海より離れしに訝し。
向かい席が男は二眼レフを持てり。
かくの如く記さるるのみにても本望ならんや。
あれこれいちゃもんをつけるも空腹がためなり。
新津に着けり。
駅前は嘆声が出でしほどのシャッター通りなり。
旧盆なりといえども営業したる店十指に足らず。
侘び寂びの探訪を終え、入りし店は壁全面が油に汚れ、ちゃんぽんを謳うも日本そば、カレー、ハヤシ、うな丼、カツ丼もメニューにありて昭和の空気充満す。
化粧濃き婆が注文を取り、息子ならん主人がおかもちを提げて出て行きぬ。
嫁ならんが大いなる西瓜を提げ、始終騒ぎし息子2人と何やら話せり。
壁を見遣るにSLばんえつ物語のポスター多く、色紙も例の如くありて世界のナベアツがサインを見つけしにいとふさわしと苦笑す。
あと1人の客はミックスフライ定食を疾うに食せるに吾人の頼みし皿うどんは一向に出ず。
そろそろ乗り継ぎ列車が気になる頃合に婆がちゃんぽんや皿うどんやと尋ねしに呆れつつ、断るにすぐに供すと言えるは熟練なり。
果たして間を置かずに面前に来るものはとろみあるちゃんぽんが如き代物なりて妙に感心せり。
待ちし時間の半分ほどで食し、店を出ず。