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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

「地図」について 後編

2024-05-08 23:47:11 | 信州・信濃・長野県

「地図」について 前編より

 『地図中心』(一般財団法人日本地図センター)の最新号である620号(令和6年5月10日発行)の特集は“「小谷村」は「おたりむら」と読む!”である。難読地名というと県内では泰阜村に多いという印象があるが、実は小谷村に最も多いのかもしれない。今回の『地図中心』ではそうした難読地名の地を紹介しており、次のような地名である。

大網
李平
阿原
強清水
土沢
埋橋
神久
藤島
大草連
葛草連
押立
上手村
奉納
下里瀬
虫尾
雨中
𡈽倉
千国
穴ノ当

以上19例のうち、わたしが読めなかったのは強清水、土沢、神久、藤島、押立、穴ノ当の6例だったので、読めている方だ。というか、もともと知っている地名が含まれているため読めたわけだが、答えは上から、おあみ、すももだいら、あわら、こわしょうず、つんざわ、うずはし、かんきゅう、ぶんじま、おおぞうれ、くんぞうれ、おったて、わでむら、ぶのう、くだりせ、むしょう、うちゅう、ひじくら、ちくに、あなんとう、となる。

 さて、『地図中心』の副題にもあるように「小谷」も難読地名だから「おたりむら」とふり仮名をしたタイトルにしている。難読地名のひとつ「葛草連」については、かつて「廃村をゆく人⑥」「廃村をゆく人⑦」で触れた。いわゆる「融通大念仏供養塔」に関して触れたわけであるが、『地図中心』620号ではこの葛草連について次のように説明している。

前出の大草連の上部にあった集落です。昔は10戸の人家がありましたが、役場の援助により一斉に転出し、昭和40年前後に廃村となりました。現在では道は藪に閉ざされ、草連(崩れやすい場所の意)という地名通り、大規模な地すべりによる崩落があるため現地でま赴くことができません。

 小谷温泉の熱湯から等高線に沿って西へ狭い道を進むと葛草連へ続く。以前にも触れたが、葛草連を集落内まで2回、入り口まで2回ほど足を踏み入れている。最初に訪れたのは『小谷民俗誌』(昭和54年)が刊行されて数年後のことだったと思う。当時はまだ家屋が残っていて、記憶では住んでいる方が1軒はあったように思うのだが…。その際には「融通大念仏供養塔」は葛草連の内にまだ祀られていた。「廃村をゆく人⑦」に掲載した碑の写真は現地で撮影したもの。現在は中土の神宮寺に移されている。その後何度か訪れたが、地滑りの工事が盛んに行われていて、当初の光景は消滅していた。

 今回の『地図中心』では長野県内の低標高の地を探っていて、これを読んでわたしも知ったことだが、長野県内で最も標高が低いところは小谷村の大糸線第5下姫川橋梁付近で172.4メートルだという。

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「地図」について 前編

2024-05-07 23:07:31 | 信州・信濃・長野県

 『地図中心』(一般財団法人日本地図センター)についてこれまで2回ほど引用して日記を記した。そもそも地図に興味がもともとあった。今は長野県民俗地図なるものに傾向しているが、ちょっと意味合いが違う。後者は表現方法として地図、といっても略図のようなものだが利用しようとしているもの。前者はまさに「地図」である。地図と言えば国土地理院の地図を思い浮かべるのは、仕事がらかつてはこの地図を多用していたからだ。しかしデジタル時代になって、かつてのような柾版の国土地理院の地図を広げることはなくなった。かつて会社の図面用の引き出しに国土地理院の柾版の地図がたくさん購入してあっていつでも利用できるように確保していたもの。したがってちょっと私用でいただくこともあった。いつごろから柾版の地図を利用しなくなったのだろう、と振り返るが、もうずいぶん以前からだ。やはりパソコンがウインドウズ時代に入ってからだろうか。したがって30年近いことになり、そもそも柾版の国土地理院の地図など「知らない」と言う人も多いのだろう。

 さて、その国土地理院の地図も昔とはだいぶデザインが変わっている。海青社というところから『読みたくなる゜地図」』なる本が出版されている。シリーズもので何冊も出版されているようだが、そのうちの「地方都市編②」には駒ヶ根市と佐久市が取り上げられている。「日本の都市はどう変わったか」をテーマにしているもので、2万5千分の1の地図の過去と現在の地図を並ぶて記述している。この2市を担当されたのは長野県環境保全研究所の浦山佳恵さん。同所の人文担当の方で、とりわけ長野県民俗の会で活動を共にさせてもらっている。そんな浦山さんから駒ヶ根市を担当するにあたり、過去とどのようなことが変わったか話を聞かせてもらいたいと連絡があったのは一昨年だっただろうか。「地方都市編②」は昨年の7月に刊行されている。わたしで良いのだろうかとも思ったが、浦山さんにとっては南信の小都市のことはあまり身近ではなかったことから、初歩的な情報源ということで少し駒ヶ根のことについて話をさせていただいた。ただ、そもそも過去と現在と言っても、駒ヶ根市は「それほど変わっていない」というのがわたしの印象だった。地図上で大きく変わった出来事と言えば、農村だから「ほ場整備」。しかし駒ヶ根市でのほ場整備のピークは昭和50年以前のこと。過去のいつの地図を採用するかにもよるが、今回は昭和51年の地図が過去の地図として取り上げられた。したがって地図の変化を著しく示すことになる道路の配置はほとんど変わっていない。加えて当時は既に中央自動車道が開通していた。あえて大きな違いは地図標記がかつてと今では異なるということ。ようは地図上の物の変化というよりは、ソフト上の変化が著しく見て取れる、というところ。その中でどうしても物の変化を上げるとすれば、看護大学がかつてはなかったこと、スキー場がなかったこと、国道バイパスがなかったこと、それに加えて現在の文化会館のところに昭和51年の図では昭和伊南病院があった。その昭和伊南病院も数年後には移転して本に掲載されたエリア外に建てられる予定。

 いずれにしても、駒ヶ根市という選択肢は編集者からのものなのかもしれないが、比較してもそれほど変化のない駒ヶ根市ではちょっと解説が難しかったかもしれない。そのせいもあるのだろう、解説では地図外にあたる中央アルプスのことや養命酒駒ヶ根工場といったことにも触れている。

続く

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「飯山線の旅」

2024-05-05 23:54:59 | 信州・信濃・長野県

 先ごろ久しぶりに栄村を訪ねた際に、道の駅に「飯山線の旅」が置かれていて懐かしく思った、というより「今でも発行されているんだ」、そう思った。

 長い間記してきた本ブログの中で、「飯山線」と検索しても記事は極めて少なかった。飯山線に縁が無かったわけではない。盛んに飯山線を利用した時期があった。飯山に暮らし始めた最初の冬の時期、生家からはとても車では行けない(雪が多くて、そもそも車を停められない)と思い、電車で飯山と生家を行き来した。いわゆる当時は土帰月来だったから、帰りは良かったが、問題は月曜日にどうたどり着くかだった。とてもようは日曜日に出ないと飯山まではたどり着けなかった。ということで、この試みは数回で諦めた。無理をしても飯山まで車で行って、宿泊していたアパートの裏側に、無理をして車を入れ込んだもの。とはいえ、当時の雪の量は並ではなかったので、どうしたものか、今でもあまり思い出せない。別の場所に車を停めるという方法もあったのだろうが、そういう考えは思い浮かばなかった。当時のわたしは応用力に欠けていたかもしれない。会議があった際にも、飯山線を利用して長野まで出たこともあった。回数はそう多くはないが、飯山線は何度も利用している。以前にも記したが、飯山の人たちは飯山線のことを「汽車」と呼んだ。違和感があったのは言うまでもない。最初から電車だった飯田線界隈に住んでいる者には、「汽車」と言われれば、当たり前に「SL」が思い浮かぶ。したがってなぜ「汽車」と呼ぶのか不思議で仕方なかった。

 さて、「飯山線の旅」という冊子、もちろん今風のビジュアルな冊子に出来上がっているが、すでに52号を数えている。どうも1年に1冊発行されているようで、わたしが飯山に暮らした時代はもう45年ほど前のこと。ということでそのころ発行が始まったと言える。実は当時の「飯山線の旅」を持ち合わせている。何号か手元にあるが、最初のころのものは印刷もそれほど綺麗ではない。残念ながら創刊号は持っていないが、2号を持っていた。それ以外の「飯山線の旅」には発行年が印刷されておらず、この手の冊子の欠点でもあるが、2号には発行年が記されていた。昭和48年だという。ということはわたしが飯山にいたころには既に8号が発行されていたことになる。ということで手元には7号から数号あった。昭和47年に創刊されたとしたら、現在52号なら勘定が合う。やはり1年に1冊発行ということなる。こうした冊子がウェブ上のオークションに掲載されていたりする。ここに「飯山線の旅」2号の表紙と内容の一部を紹介する。縦版は1頁を、横版は見開きの2頁を示している。A5版の冊子である。

 

2号表紙

 

先ごろ「あのころの景色⑥」でも振り返った千曲川の渡し、当時はまだ運行されていた

 

 

 

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郷土史誌の悩み

2024-04-22 23:01:46 | 信州・信濃・長野県

 先日『信濃』(信濃史学会)の最新号が届いた。「薄い」というのが手にとっての印象。編集後記の後に編集委員会からの「四月号からの会誌の編集について」という会告が掲載されていた。冒頭「本会は会誌の月刊発行に大きな努力を傾けてきており、それは今後も変更しない方針でいます」という。裏を返せば、財政的に大変で、そうしたなかでは月刊誌を辞めてもよいのでは、という意見があったのかもしれない。以前にも触れてきていることだが、長野県内には月間の郷土史誌研究の雑誌が3団体から発行されている。そもそも全国を見渡しても月刊誌はそのくらい。長く続けられてきた背景にはいろいろあるだろうが、もともとこうした分野は教員が主たる構成員だった。しかし、今の教員にそうした意欲は薄い。わたし的には「忙しい」は理由にならない。そもそも全国的にもそうなのだろうが、こうした分野への興味は薄らいでいるよう。会員減少による財政難は、こと郷土史誌に限らない。多様化した人々のニーズは、分散化して、さらには活字から解放されて、今や印刷物は「不要」という人が多い。若者は一層その傾向にある。したがって、若い会員が増えないのも当たり前である。現在の会員が高齢化して、いつかは廃刊に結び付く、は自然の流れかもしれない。とはいえ、こうした研究分野が消滅して良いのか、と問われる。支えていく方法はないのか、垣根を越えた議論が必要なのだろう。

 研究誌が薄くなる、あるいは発行間隔が長くなる、は既に起きている減少。繰り返すが財政難である。会員が減ればおのずと収支が合わなくなる。合わせるために削る経費は限られている。しかし薄くなる、発行間隔が空く、ということはそもそも発表の場が限られていくことになる。研究意欲が低下するのはもたろんのこと、若い人々は一層発表する場がなくなる。悪循環を繰り返して、消滅するというわけである。

 『伊那路』でも経費節減のために交換団体への雑誌の送付を減らそうとしているという。ほかにもいろいろ節減策がとられることになるだろう。そもそも月刊で、この会員数でよく発行している、と感心する。それでいて会務報告が今までされてこなかったわけだが、収支はどうなんだろう、と心配になる。それほど大きな額ではないのだから、支える方策を他分野に投げかけるのも良いのだろう。そういう面では、『伊那民俗』を発行している柳田國男記念伊那民俗学研究所は恵まれている。多額ではないが、行政から支援を得ている上に、活動の場が確保されているし、そこには蔵書を置き、後悔もできている。手弁当でやっている会に、そのような会は、ふつうはあり得ない。

 『信濃』はこれまで80ページだったが、4月から72ページにしていく。たった8ページ薄くなっただけだが、ずいぶん薄くなったような印象を受けた。論文は3本しか載っていない、内容が薄くなれば、結果的に会員も減っていくのだろう。会告には「会の収入を増やすには、会員増が一番です」とある。とはいえ、一般人には会費年額10,200円は「高い」と受け止められる。まさに専門の学会誌レベル。広告を会誌に載せても、読者が限られていて、一般広告掲載は見込めない。わたし的には10,200円は確かに「高い」方だとは思うが、だからといって、月にすれば1,000円に満たない。娯楽にもっと使っている人たちが、たったこれだけの会費で高いというのなら、その貢献度を認識してほしい。

 『伊那路』でも月刊誌を辞めたら、という意見もあるという。前述した3誌、どこが最初に月刊誌を諦めるのか、そんな時代がやってきている。

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事前通行止めと、危なくてしょうがない「道」

2023-01-25 23:50:55 | 信州・信濃・長野県

 24日の夜から25日にかけて「10年に1度の“最強寒波”襲来」と騒ぎ立てていた。もちろん今冬一なのだろうが、少し大げさな表現だった、とは今日になって思ったこと。そもそも天気予報を見ていても、それほどという印象はなかった。

 とはいえ、事前規制のように道路はあちこちで通行止めになった。中央自動車道の県内ほとんどが通行止めになったし、木曽谷の国道19号も全線通行止めになった。これまでにも何度も記してきたことだが、今は少し路面が圧雪状態になれば、坂を登れない車が必ず発生する。1台でもそういう車があると、渋滞になってしまうから、事前に通行止めにする。昨夜の県内の道路状況は、ほとんどの幹線道路が通行止めになった。流通どころか、帰るのに苦労した人もいたことだろう。事前の通行止めだから、木曽谷の駒駆動19号は今朝の通勤時間を前に全て解除になった。問題が発生してから通行止めにしていないから、解除するのも早い。だから理想かもしれないが、繰り返すが、通行止めによって足止めをくらう人たちもいる。

 スタッドレスタイヤの性能は、昔より上がってはいるのだろうが、現在のスタッドレスタイヤの考え方では、結果的に車の性能で格差が広まってしまい、結果的に動けなくなる車を招いてしまう。何より路面をこすりながらも制御しようとする今のタイヤでは、より滑りやすくなってしまうし、もはやその路面を人は歩けなくなる。「車は良いが人は転ぶ」という環境をスタッドレスタイヤが作っている。もちろん昔のようなスパイクタイヤにしろとは言わないが、すべらない別の方法を考え出さないと、降雪時の車社会は制御不能となる。昔より雪は少ないし、気温も高いというのに、こんな状況なのだ。

 昨夜もふだん通り高速を使わず、あわてずに帰宅した。安全策なら高速だったのだろうが、急ぐ必要もなかったので、渋滞のような、ただのノロノロ運転のような世界を運転した。会社の駐車場からすぐにある急坂は、後輪だけで上ったが、その先は時おり尻を振りながら走る時もあって、とくに「滑る」と感じた時は、四輪駆動にして走った。平らなところでも滑る時は、そこそこ滑る。ノロノロになるのも当たり前で、車によってはそうした環境でも煽るように迫ってくる。車による格差とはそういうときに現れる。相手に運転しづらい雰囲気を与えてはならない環境なのに、そうは思わない人も少なくない。

 さて、飯島町の広域農道与田切川橋を渡って南の急坂を上ると、北へ向かう車は「柏木」の信号で右折させていた。ようは北方向は通行止めにしていた(わたしは南方向)。ようは橋の南側の坂が急なため、北方向に向かう車にすれば「下り」なのだが、その下りがあまりにも危険であり、迂回させていたというわけだ。初めて見る光景だった。ふだんほとんどの人が選択しない「日影坂」に迂回させているのである。ふつうに考えると日影で、だれもが降雪時には走りたくない道なのだが、実は道路勾配は日影坂の方が緩いため、ゆっくり走って行けばこちらの方が安全というわけなのだ。新しい、ふだんなら当たり前に選択されている幹線道路が「危なくてしょうがない」から通行止めにされているのである。もちろん急すぎて滑り始めたら「止めようとしても止められない」からのこと。

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問題の所在は…

2022-09-06 23:00:00 | 信州・信濃・長野県

 昨日の信濃毎日新聞朝刊第一社会面に「共同募金の支払い町会予算で」という記事が掲載された。「赤い羽根共同募金を巡り、松本市城北地区の一部町会が、全世帯分の戸別募金を町会予算から一括支出し、県共同募金会(長野市)に支払っていることが4日、分かった」というもの。「戸別に集める手間を省くため」に町会予算から払うことにしたもので、町会員の同意は得ていたという。「募金したくない人らの思想良心の自由を侵害する恐れがある」という批判を紹介し、さらに受領側の県共同募金会の「募金の趣旨に反する」という意見も掲載した。そして同意は得ているとはいうものの、「町会内の住民たちは納得しているのだろうか」と、記者は地区内住民に聴取し「日中は留守宅が多い。募金集めは大変そう。全世帯が公平に負担することになるし、違和感はない」「生活が苦しく募金はしたくない。まるで税金のよう。町会予算を募金に充てるぐらいなら町会費を減らしてほしい」といった賛否を紹介。そのうえで県共同募金会の「自治会内に募金に賛同しない人がいれば募金の趣旨に反するから見直しが必要だ。各地区とともに検討したい」と話している」という言葉で締めくくっている。

 記事の主旨はどこにあるか。「声のチカラ」シリーズの記事であり、町会長の疑問視する言葉を掬い取ったことから、そもそも募金の仕方への問題点を示した、ということなのだろう。違和感は末尾にあげられた県共同募金会の「見直す」の背景だ。見直しとはどのようなことを対象にしているかがはっきりしない。記事としてはタイトルを目立つように配す新聞記事の作り方からして、「町会予算から一括支出した」ことを疑問視しているようにも受け取られかねない。問題の所在は、そもそも目標額を定め募金を依頼している県共同募金会のやり方にある。目標額があれば、当然それを前例として受け止め、集める側は集める。一戸当たりの目標額を記せばなおさらのことだ。

 同じような集金は年間いくつか自治組織に通知されてくる。すべて同じで、集める側はあくまでも個人の自由だと解釈しても、目標の額を示してあげないと集めづらいだろうし、手間もかかる。むしろ金額は小さくても集める側の負担が大きい活動であって、無駄を省こう考えれば、町会予算から支出するのが最も簡単で、労力を使わない。ようは理想なスタイルとも言える。もはや「集める行為」が人々の絆になるなどという意見はないだろう。とすればそもそも募金など辞めて、税金で払えば簡単なこと。ところが主旨がことなるから、そうはいかない。結果が同じなら過程はどうでも良いじゃないか、といかない不合理な社会活動は山と存在する。多忙な者からしたら「こんな無駄な労力はない」と思うのだが…。そしてこの新聞記事の表現方法だ。近ごろの信濃毎日新聞は、こんな表現ばかりだ。タイトルと、事例としてあげる「人の言葉」と、記者の記事構成方法と、短い文脈に問題多数と捉える。

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「呑堰」という堰

2021-05-24 23:58:37 | 信州・信濃・長野県

屋敷背後の堰(令和3年5月24日撮影)

 ある生業外の仕事にかかわって、旧豊科町真々部を訪れた。そこで「ノミセギ」に注目されている方に、これは千国街道筋の文化かもしれないと言われ、検索してみたものが「呑堰」である。初めて耳にした単語であるが、イメージで捉えれば「飲み水の堰」となるだろうか。現在は飲み水ではないが、元来そうした意味を含んでいたということで、それにかかわる看板が真々部区歴史研究委員会において現地に立てられているようだ。その説明には「この堰は、1550年代武田信玄により、真々部城下の呑み水確保と真々部城(館)周囲の堀への給水を目的に開削されたため、呑堰と呼ばれている」とある。飲み水のみのためではなく堀への導水も兼ねていたということになる。全長は5キロにわたり、真々部に至ると分岐して幾筋にもなっている。元来は飲み水の意図もあったのだろうが、灌漑用の水として、地域を発展させてきたのが事実のよう。注目されている方によれば、灌漑用とは分けて別筋に集落に導水されていたのではないかという。

 真々部には「町通り」と言われる、いわゆる千国街道がまっすぐ南北に走る。その街道筋に家々が連なっており、まさに「町」を形成していたのだろう。その西側背後は水田となっており、幾筋もの用水路がある。この背後地は、集落から捉えると、若干高い位置にある。したがって灌漑用の用水は、そのまま生活用水にも利用可能だ。したがって飲み水としての機能は、そのまま期待できる位置にある。そして確かに屋敷の背後に現在も用水路が導水されており、「呑堰」の景観を思わせる空間が、そこにはある。実際は「呑堰」と名づけられている真々部呑堰はここまで至っていないが、分岐後の現実的な生活用水の姿が垣間見られる。

 やはり簡易水道に関する「梓橋簡易水道の取水槽跡」という説明板もあるらしい。大正5年に簡易水道を造ることになり、呑堰脇に取水槽を設置し竹菅や木管をつなげて水を引く工事をしたという。いわゆる「こし井戸」になるのだろう。松本平ではこし井戸の話を現在でも多く耳にすることができる。扇状地であるから、水を引かなければムラはできなかった。「呑堰」なる言葉が生まれたのも理解できる。

 ということで、「呑堰」で検索してみると、やはりトップには安曇野のものが引かれる。そして大町にある若一王子神社は「町割りに重要な呑堰の分岐点に祀られ」たという。同じく旧豊科町成相新田宿の小路について「千国街道の伝馬宿として栄えた旧成相新田宿。呑堰のある小路には、当時の風情が残っています」というものも見られた。やはり千国街道沿いに「呑堰」が多く分布しており、それらは、どうもマチを造るのに必要だったものだとわかる。さらにこの地域だけではない「呑堰」の存在は、武田信玄がらみなのか、笛吹市にも見られるし、熊本市にもあるようだ。

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住みやすい地に立ち、思うこと

2021-04-19 23:31:03 | 信州・信濃・長野県

令和3年4月19日10:30撮影

 

 ここは、飯島町田切である。かれこれ10年ほど前のこと、この光景が望める場所へ、仕事で何度か足を運んでいた。季節は秋に入るころだったのだろう。もちろん、ここに記した記憶はない。当時は、日記に記すほど、ここで何かを感じたわけでもなかった。

 ここは中田切川が形成した段丘上にあたる。わたしの生まれ育った与田切川と、中田切川は、同じ中央アルプスの南駒ケ岳を中心とした山々から流れ出した川だから、似ている環境にある。今まではそう思っていた。しかし、あらためてこの地に立っていると、その違いに気づく。与田切川の谷底で育ったわたしは、与田切川に面した段丘を上り下りして暮らしたことは事実だが、中田切川ほど、川に面した段丘が、日影にならない、言ってみればその川の形成した段丘面が「広い」と感じることはなかった。むしろ天竜川が掘り刻んだ段丘に、集落は制約を受けたように、住空間は形成されていた。ところが中田切川の下流域に、天竜川に面した段丘は小刻みに形成されていない。なぜこんなに違う景観を造ったのか、即答できないが、同じように見える川にも、何か違う要因があったのだろう。

 繰り返すが、ここは中田切川に面した段丘のひとつ。この南側にさらに南田切の集落を形成する段丘がもう一段高くあり、その向こう側(南)には、藤巻川に面した段丘が形成される。すぐそこに天竜川の深い谷が迫っているこの地は、中央アルプスから見れば東に遠ざかっていることもあり、南駒ケ岳だけではなく、木曽駒ケ岳までの山容が眺められる、いってみれば中央アルプスをもっとも美しく望めるエリアだ。とりわけ南側の段丘を上った南田切は、おそらく両者を望むことのできる絶好の位置なのだろう。そして、ここに身を置くと、中央アルプスの山麓に近い高台と違って風が強いと感じたことは少ない。ようは住みやすいエリアでもある。

 さて、なぜここに身を置いて、かつては感じなかった日記を記すことになったのか、おそらく今の季節がここから眺められる山々が印象深く感じさせる時だったのだろう。そして当時はそれほど感じなかった、無住の家々を今は強く意識させられる。果たして10年前は無住だったのかどうかは解らない。しかし、あえて今はそれを強く意識するほど、そうした家々が眼に入る。南側に段丘を控え、北側にもなぜか小高い丘陵を有すこの地は、なお一層風が吹かない地だ。暮らしやすい、そう思うが、いっぽうここから町の中心にある学校までは、遥かに遠い。わたしの生家もそこそこ遠いが、計測してみると、わが家から小学校まで3.2キロ、ここからは4.2キロと、1キロほど遠い。あくまでも学校を念頭においた距離感に過ぎないが。

 写真に写りこんでいる家も、どうみても今は無住だ。住みやすい、とは思うがそれはあくまでもわたしの感情移入に過ぎない。中央に宝剣岳が尖っている。わたしの生家からはさすがにこの姿は望めなかったが、山麓から離れるほどに、南駒ケ岳の麓でありながら木曽駒ケ岳方面も望める。

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丸彫り馬頭観音

2021-01-31 02:47:01 | 信州・信濃・長野県

令和3年1月29日撮影

 

 一昨日から飯島町日曽利を仕事で歩いている。かつてのヨケ道のことについては、これまでにも何度か記してきているが、集落の中央の辻が、かつてのヨケ道の辻であることは、道標などからわかる。その辻の近くの道端に、小さな覆い屋の下に肩を寄せ合うように2体の石仏が納められている。いずれも似たような風貌の石像で、合掌している。はっきりとした馬頭ではないが、図上に彫られているのは馬頭と気づく。いずれも丸彫りの馬頭観音である。丸彫りの石像といえばお地蔵さんが頭に浮かぶほど、丸彫りの石像はほかの石仏には少ない。まっくた馬頭観音にないわけではないが。めったにお目にかからない例だ。

 この地域の旧家である香坂家の墓地の入口に建てられているもので、おそらく香坂家で建てたものなのだろう。蓮華座の台石の上に2体並べられているが、見てのとおり台石とは一致していない。台石の窪みが円形にされているところから、この石仏のたろの台石かははっきりしない。もちろんひとつの台石の上に2体載せられているから、もしどたらかの台石だとしても、もう1体には台石がないということになる。向かって右側の馬頭観音には銘文があり、「文化五辰天 六月十日 施主由平」とある。1808年造立ということになる。造高50センチ弱、左側のものの方がやや高く、50センチほど。

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清水坂のお不動様 後編

2021-01-28 23:49:59 | 信州・信濃・長野県

清水坂のお不動様 前編より

 

お不動様

 

「蚕玉大神」

 

蛇神

 

「猫神」

 

 巨石と言うべきか巨岩というべきか、そもそも地質上ここは基盤は岩ではない。したがって流れてきた巨石が正しいのだろう。しかし、天竜礫層のひろがる洪積層の上に、これほどの巨石が露頭している姿の例を知らない。駒ヶ根市の菅の台に切石・重ね石・地蔵石・袋石・小袋石・ござ石・蛇石といった七名石と言われる巨石があるが、それらは千畳敷カール付近から氷河に押し出され、さらに洪水によって移動してきたものという。したがって山麓にあるが、お不動様ののる巨石は山麓からかなり離れている。どのような状況でここにこの巨石が路頭することになったものなのか。その巨石、実は正面からの写真では気がつかないが、少し左手に回っていくと割れ目が入っている。鬼滅の刃ブームで、全国各地にある一刀石が話題になっているが、お不動様の巨石はまったく話題にもなっていないが、それと見れば見られないこともない。

 さて、巨石の上にのる不動明王には、「寛政四年壬子年 十一月廿八日建之」の銘が見える。寛政4年といえば、1792年。前編でも述べたが、旧井が開削されたのは文禄2年(1593)という。したがって不動明王が建立されるまでちょうど200年ほど経過している。当時の周囲の状況がどのようだったのか、清水と言われるだけにすでに居住者があったのかどうか。

 不動明王の周囲には、石神が点々と散在している。お不動様がメインであることに違いはないが、その隣にある「蚕玉大神」は、お不動様の次席という存在だろうか。背面には「明治十六年未年 八月吉日 講中」と刻まれている。次に目立つのは、蛇を彫ったものだろうか、数基存在する。その中でも最もリアルなものが写真のものである。一見気がつかないのだが、よく見ると鱗が刻まれている。ここまでリアルなものは少ない。

 散在と前述したように、点々と立っている石神の中でもお不動様からは離れた位置にあるのが「猫神」である。この猫神は“「猫神」其の2”で触れた。次席にあたるものに「蚕玉大神」があることから養蚕に関する祭祀物が多いのかもしれない。とすると、やはりこの猫神も養蚕のために建立されたものか。なお年銘などはない。

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清水坂のお不動様 前編

2021-01-26 23:51:47 | 信州・信濃・長野県

清水坂のお不動様(1月26日撮影)

 

 飯島町飯島の中心街であるマチの中へ導水する用水路は「旧井」と言われている。「旧」と名づけられているから使われていないというわけではない。飯島の下在の水田地帯を潤す幹線的用水路である。古い時代から開削されていたことからこの長がつけられているようだ。天明6年の石曽根村・飯島町絵図にも描かれており、飯島代官所をはじめとする町場の生活用水としても利用されていたと思われる。『飯島町誌中巻』(平成8年)には「宿場用水とした」と記されている。開削されたのは文禄2年(1593)ころだったという。この旧井は、与田切川から導水しており、谷の底から段丘上まで揚げている。もちろん自然流下であり、取水後段丘崖を約1.5キロほど導水すると宿場町へと入っていく。その間等高線沿いに山腹水路として導水されており、ようやく段丘上の水田に掛かり始める直前に余水吐けにあたる「落とし」が設置されている。ようは旧井から与田切川に戻すように、段丘崖を一気に下る余水吐けが設けられているのである。ここまでの段丘崖に沿う水路は、前掲書にも「難所」であったと記され、文化3年の「御普請麁絵図」には「井蓋」を掛けた場所が4箇所あったと記されているという。さらに「崖下側には井縁を築き立て、石積、枠組等で崩落を防いでいる」とある。今もなお、こうした山腹水路の崩落箇所には、同様の施設が設置されることが多い。それでもなおかつ崩落著しいと、隧道化となるわけである。旧井には隧道がないだけに、まだ難所は序の口だったと言える。

 この落しをかつて旧井落しと聞いたことがあったが、この落しの東側をかつて清水坂と言われ、祀られているお不動様の祭りはたいそう賑わったという。このお不動様のことを『長野県中・南部の石造物』(2015年 長野県民俗の会)に記したことがある。


清水坂のお不動様

 国道153号線与田切川橋の北側の段丘上に松林があり、そこの巨岩の上に清水坂のお不動様がまつられている。中町の宮下家が祀ったものといわれ、もとは現在より東の骨曲がりにあったようである。かつては地元の豊岡地区の人たちが協賛して、4月28日に祭りが行われていたもので、行者様が護摩を焚き、法螺貝を吹き鳴らし、印を結んで呪文を唱えたという。ちょうど桜の咲くころで、東側の道添いの桜の木の下で酒宴の席が設けられていたといい、近所の家々でも座敷の障子を開けて、来客や通る人を呼んでもてなす風景があった。また、露店がいくつも並び、相撲や弓が行われたという。近在に知られた祭りであったが、昭和30年以降急にすたれてしまい、現在では祭りらしい祭りも行われていない。
 昭和17年に豊岡に嫁にきたという片桐さとさんは、近年何回かお不動様に剣を奉納している。いずれも体に具合の悪いところがあったため奉納したもので、奉納するときは背丈の剣を作るものだという。祭りが行われなくなってからは、管理する人もなく、近くの有志で掃除などをしてきた。お参りができる時はできる限り来るようにしており、時には掃除を心がけるという。現在では清水坂のお不動様といっても知らない人が多くなってしまったが、こうした人々によってお不動様は守られている。


 わたしはここに「松林」と書いたが、現在は杉の木に覆われているから間違いだったかもしれない。発行されたのは2015年だが、話を聞いたのはさかのぼること20年以上前のことだ。ということで、例のごとく仕事でこの脇を歩いた。久しぶりにお不動様を拝顔したわけであるが、話を聞いたあとにも何度か訪れていたが、そのたびに「剣」がお不動様のところに奉納されている光景を見た。ところが、今はその跡方もない。ようはもうここに剣を奉納するような方はいないということになるのだろう。

続く

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長野県の耕作面積

2020-04-12 23:27:51 | 信州・信濃・長野県

図1 耕作面積/総土地面積比

 昨日「田の多い地域、畑の多い地域」について長野県図に示した。ちょうど良いので、同じ平成27~28年 長野農林水産統計年報から、市町村別の耕地面積率を示してみた。図1は各市町村別に耕地面積/総土地面積を比率で表したものである。濃度の濃い(黒い)市町村ほど耕地面積の率が高いところになる。そもそも長野県の場合、林野率が高いのは言うまでもない。ちなみに①全県の耕地面積率は8パーセント、②関東農政局管内では14パーセント、③全国では12パーセントとなる。同様に林野率は、①76パーセント、②56パーセント、③66パーセントとなる。8割近くが林野、そして耕地は10パーセント以下、というのが長野県である。

 県内で耕地面積が25パーセントを越えているのは2町村で、小布施町と山形村である。最も高い小布施町は42パーセントという耕地率の高さである。高山帯をエリア内に持っているかどうかによってその値は大きく異なる。したがって最も耕地率が低いのは、0.1パーセントという王滝村、次いで0.3パーセントという平谷村である。濃い色を示す地域が北信地域の比較的低山帯を持つ地域や、安曇野周辺、あるいは上田周辺である。いっぽうとても色の薄い地域が山の中である木曽地域や、下伊那南部といった地域である。でありながら田が畑よりも多い木曽地域は特徴的な地域といえそうだ。

 

図2 田面積/耕作面積比

 

図3 畑面積/耕作面積比

 

 参考に図2と図3は耕作面積に対する田率、畑率を示したものである。田畑の比率であるから、正反対の値となる。図2は濃いところほど田が多く、反対に図3は濃いところほど畑が多いというわけだ。ひとつの図で十分確認できるわけだが、色が濃いところが印象強くなってしまうため、二つをあえて示してみた。北信の果樹地帯、東信の畑作地帯が歴然として現れるわけだ。

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田の多い地域、畑の多い地域

2020-04-11 23:03:38 | 信州・信濃・長野県

 

 伊那谷に関して、これまでにも南北の景観の違いについて触れてきた。北側は水田優先、南側は畑優先、それは景観に明確に現れているということ。あらためてデータでそれを示してみた。図は、「平成27~28年 長野農林水産統計年報」からまとめた田が多いか、畑が多いかを示したもの。黒色は水田が畑より多い市町村、白色はその逆で畑が水田よりも多い市町村である。意外に思うのは長野市周辺が畑が多いことだろうが、やはり果樹園が盛んな地域は畑が優先することになる。また、高原野菜の盛んな地域も同様だ。

 いっぽう伊那谷を見てみよう。北側のいわゆる上伊那郡では、唯一蓑輪町が畑の方が優先するが、あとは全て田が優先する。そして南側の下伊那郡に入ると売木村を除く全ての市町村が畑優先となる。これほどはっきり現れる地域は珍しいだろう。データで明確にその景観が現れている例である。実際の数値で捉えてみると、下伊那郡松川町は田23%に対して飯島町は畑29%と、まったく正反対の数値である。それが上下伊那の境界域だというのだから、郡を越えると景観が一変する典型的な例である。

 単純にどちらが多いかという白黒をつけたものであって、実際の数値は拮抗しているものもあれば、飯島町と松川町のように明確に優先度がはっきりする例もある。意外に思えるのが木曽谷の町村だ。ちょうど木曽駒ケ岳の反対側にあたる木曽地域には、田優先地域が目立つ。実際の数値で捉えると、拮抗している町村もあるが、南木曽町のように田64%と田優先度の高い町もある。また、圧倒的な数値を見せるのが、南佐久地域の村だ。川上村は田が2%しかないし、隣の南牧村も6%を示す。どちらかが一桁代という例は、この二つの村だけである。田の優先度が圧倒的な地域が北安曇郡である。景観を思い出してみれば納得できる。水利とかかわる面もあるが、例えば松川町の畑優先度が上がったのは、果樹が盛んになって以降のことだろう。この町を歩くと、畦のある土地に果樹を栽培している光景をよく見る。ようはかつて水田であったところを永久転作した事例だ。先日触れた「ブンチのシゲチャ」も水田に二十世紀梨を植えて、果樹栽培に転換した。したがって農業用水路が、果樹園地帯を流れている例が多い。これも特徴的景観といえる。

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富蔵山

2020-03-16 23:50:42 | 信州・信濃・長野県

「橋二ケ所供養」と「富蔵山」

 

血取り場の馬頭観音

 

 富士見町に目立つものに「富蔵山」という石碑である。富蔵山は「とくらさん」と読み、東筑摩郡旧坂北村(現筑北村)にある天台宗岩殿寺(がんでんじ)の山号である。なぜ坂北村というかけ離れた、それもそれほど知られていない岩殿寺が富士見にかかわってくるのか、詳細は調べていないが、室町時代末期に武田信玄の帰依を受け、寺紋を武田菱としたあたりとかかわっているのかも。本尊が馬頭観世音ということで、馬の信仰が篤いという。乙事の東はずれの丘陵地は山林となっており、ここを「富蔵の森」と称している。西側はくぼ地となっており、農業用水路がその低地を流れている(下流は「矢の沢川」)。乙事から高森へ向かう道がうねるように曲がる西側低地り交差点に、「橋二ケ所供養」の石碑が立つ。「富士見町の道祖神②」でも橋供養碑を紹介したが、富士見町には橋供養の石碑が多いようだ。ちなみにこの橋供養碑は、「文化十癸酉二月」と銘文があるように、1813年建立のもの。隣に並んで立っている「南無阿弥陀仏」は寛延3年(1750)造立である。おそらくこの用水路を跨ぐ位置に橋がかつてあったのだろう。

 この交差点から富蔵の森はすぐそこに見えるとともに、その口元に石碑が立っているのもよく見える。それが「富蔵山」である。上部円形の中に梵字が刻まれている。

 ちょうどこの富蔵の森を訪れた後、『長野県民俗の会会報』の最新号(42号)が届いた。本号に下平武氏が“「狼落とし」(いぬおとし)についての一考察”を発表されていた。この「富蔵山」の近くに伝承されているのが「次郎兵衛狼合戦」である。下平氏の文より引用させていただくと、

吉右衛門という村人が、朝早く田んぼの見回り中に、オオカミに襲われました。ちょうど草刈りにいく途中だった次郎兵衛と数人の若者が、助けに向かいました。最後までオオカミと戦ったのが次郎兵衛です。身体中に傷を負いながらも、オオカミを組み伏せ、退治したのです。吉右衛門は、残念ながらこと切れてしまいましたが、このことで、次郎兵衛は諏訪藩の家老茅野氏の屋敷に呼ばれ、たいへん褒められ、帯刀を許されたということです。オオカミと戦った場所には供養の祠が立ち、村には、このお話が伝わっています。

という話である。実際供養塔が今も現存するという。

 「富蔵山」の向いている低地の対岸にやはり丘陵地があり、そこに血取り場がある。独特な空間で、いかも血取り場という感じだ。血取りについては、かつて「牛の爪切り場」で触れた。「血下げ場」とも言われた。

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会田川を遡上する

2019-10-06 22:48:11 | 信州・信濃・長野県

安曇野市明科清水

 

松本市四賀会田子安神社

 

 昨日東伊那ではこの土日に祭りが集中しているという話を記した。実は昨日は、前日に松本市内で仲間との飲み会をもって宿泊し、筑北の方まで足を伸ばして調べごとをしてきた。とりわけ旧四賀村に向かう途中でも、あちこちで幟が立てられていて、祭り一色という感じだった。そんななか、立ち寄った旧明科町清水では、公民館で祭りの準備をされていた。ハナを作っていたようで、公民館の掃除もされていた。何か催しがあれはと思って聞くと、「何もない」とのこと。ハナは神前に飾って、みんなで参拝するとそれぞれの家へ持ち帰るという。ここではもう神事のために神主を呼ぶこともしない。地元の人たちだけでお参りして祭りも終わるという。とはいえ、公民館から見える参道に立派な灯籠が低い位置に吊るされていたので、なぜ低い位置にあるのか聞くと、夜火を入れるのに、低くしてあるという。いっぽうで、立てるのに人手がいる幟は、今は立てないという。若い人がいないから、とも。春彼岸の日にここを訪れた際、近年よそから移り住んだ人が複数いると聞いていた。この日も祭りの準備に来られていたが、そのおかげで少し継続の時間は伸びたのかもしれない。旧明科町の山手にはおなじような地域がいくつもあり、中には廃村となった地区もある。

 さて、灯籠の脇に道祖神が3体並んでいる。右端に「道祖神」があり、左から2体は双体道祖神。しかし、双体道祖神の劣化は著しく、何が彫ってあるかはっきりしないほど、風化が激しい。すでに銘文など読めないほどであるが、『明科の石造文化財』(昭和56年 明科町史編さん会)によると、左端のものには「金三十両帯代」とあり、造立年について「安政六己未正月吉日」(1859年)とあるようだ。

 清水から少し会田川を遡ると、県道端の会田子安神社にフネが留め置かれていた。見るからにフネに見えるが、ブタイである。確かに2階部分は一般にいうブタイ風である。にもかかわらず、そこから竹で組まれた舳先に、それこそ海を想像させる幕が張られている。が、よく見れば泳いでいるのは緋鯉のよう。波の描き方はまさに海であるが、そこに鯉というのもアンバランスではある。中信地域には、ブタイをフネ風に飾り立てる例が多いが、ここのものは、1階部分は、安曇のオフネと同じようなヤグラ構造になっていて、2階部は山車である。御厨神明宮へ曳行されるブタイ4台のうちのひとつで、西宮区のものである。三田村佳子氏の『風流としてのオフネ』によると、かつては四賀全域から21台のブタイがやって来たという。そしてこれを里山辺型オフネに分類している。

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