「崩れた畦畔」の復旧で、行政とひと悶着あったことから、あまり強いことは言えなくなったのも事実。行政の担当者には判断できないこともあるし、それを要求しても迷惑なばかり。等しい対応を迫られる行政の難しさだ。しかし、「等しくない」と思われることも往々にして存在するし、すべてを丁寧に説明していたら行政ははかどらない。百も承知ながら、だからといって住民が無口で良いというものではない。そんな苦情を等しく捉えながら対応していく人々に、言いたいことも多々あるが「無理もない」と同情する自分もいる。
さて、「崩れた畦畔」の近くで水路が被災した。6月から7月にかけての豪雨で100メートル以上にわたって洗掘されて、従前に比べたらずいぶん水路が下がってしまった。もともと豪雨のたびに洗掘されつつあって、しだいに水路が下がってきていたが、今回周囲の水田の法面も洗った。見事に災害らしい光景になったこともあり、そこから水田に用水を引いている方に「災害にあげてもらったらどうか」と話したところ、実際取水するのに苦労されているようで、早速村の議員さんに連絡してあげてもらうように話をされていた。この村では被災者が直接行政に申請することは許されない雰囲気。ちゃんと手続きを追っていかないと、相応の立場の人がへそを曲げるようだ。いまだ大昔の世界観。
災害で申請してもらえるようになったが、施設災害は関係者1人では申請できない。複数の関係者が存在することが原則。実際のところその水路から現在用水を取水しているのは、その方だけ。あとの水田は荒れている。話をしても「もううちは作らないから」と負担のことが頭によぎって無関係者となってしまう。そもそも公共的要素があるのなら、管理組合のようなものを作って施設継続に向けたシステムを構築するのが行政の役割でもあるのだろうが、どうもこの村はそうしたことに対しても積極的ではない。実は水路の上にはふたつのため池があって、その余水はこの水路に流される。ようはため池の排水路なのである。ため池を含め、上流域は山林となっていて、単純な用水路ではない。より公共性が高い水路といえる。そのままにしておけないのは、見ればわかることだが、それを認識する人は、水路周囲の関係者にいないのはもちろん、行政もそうした意識は持ち合わせていない。結局これまでも今も水田を耕作されている方が、一人で水路の管理をしてきた。わたしからみれば、明らかにため池の関係者もかかわるべき水路と捉えるが、その方は関係者に率先して説明しても、結果的に負担金の話でもめたりするのが予想されるし、何をいわれるかわからないといって、面倒なことに手間暇かけるより負担金は自分で払うという。ただ1人では申請できないからと、悩まれていたので、水路沿いに農地のあるわが家が関係者に名を連ねることになった。というか、そうすればスムーズだとわたしの方から提案した。住みにくい地域の悲しい現実だ。
申請のための写真を来週村の担当者が撮るというので、今日草刈をした。ふつうの人はどう草を刈ればよいかなどわかるはずもない。村では場合によっては自分達で刈るといったが、100メートル以上ある空間を刈るには、簡単ではない。そもそも申請してもらうのだから、草刈くらい地元の関係者がやるのが当然だと、わたしは思うのだが、今はそうもいかないのが現実のよう。数年前災害復旧でかかわったある村では、たくさん災害の現場があったが、担当者が自ら「草を刈る」と言っていた。おそらく仕事中だけでは時間が足りず、休日も草を刈ったのだろう。これもまた災害に対する意識のあり方が問われる。「当然関係者が」と思うわたしは、当たり前に草を刈る用意があった。水田に水を引かれている方にふつうに草刈をしてもらったあと、どう刈るべきかわかっているわたしが、仕上げの草刈をした。我が家の水田の2箇所も含め、今日1日、災害現場の草刈で終わった。刈り方はともかくとして、「関係者に草を刈ってもらう」、という仕組みを作らないと、この後大変だと思うのだが…。
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