次に同じ『長野県上伊那誌民俗編』(上伊那誌刊行会 昭和55年)の第6章民間信仰の第三節「道祖神」の中から「信仰と行事」及び「道祖神祭」の項に記載された伊那市関係のものを取り上げてみよう。
長谷村伊那里浦
浦部落は杉島から三峰川に別れてしばらく登った高い所の部落で、東面した山腹に立つ家々からは蛇行する三峰川が美しく俯瞰される。奥浦は三六災害の後二十丈戸位の家が集団移住して今は無人。前浦は三十七戸が今十七戸になってしまった。
どんど焼 前浦に道祖神はニケ所にあるが、これはとっつきの北村と中屋と一緒の方の場合である。畑中の辻にある道祖神の前に「道祖神」と書いた旗を正月十二日に建てて二十日までおく。どんど焼は正月十四日晩道祖神の前で子供達が焼く。注連飾は暮の二十九日に飾り、松も三段の立派なほい木を用いたが後には枝にした。そのお飾りを七日にお神酒を進ぜてから外しておく。十四日に子供達が寄せに来て道祖神の前へ集めて焚く。燃える時に「おんべちんちょわいわい」と囃したてる。また書初めを燃やす。高く上がると手が上がる(上達する)と言った。またおめえ玉(繭玉)を焼いて食べる。大人が繭玉を三個または五個持ってお参りに行き、碑の前へ進ぜてくる。それを子供達が焼いて食べる。
厄投げ 十四日晩、どんど焼の火が燃えている時、銭とお洗米とその他に年齢によって決った物を投げてくる。碑へ投げつけるのでなく、道祖神を拝んで帰る時に後向きに道に投げる。その時「鶴は千年、亀は万年、わたしの年もその通り」と言う。
年齢によって投げる物が違う。いずれ日常身につけている大事なものを投げるという趣旨であろうか。お金は今では一円を主に五円十円を混ぜて年齢数にする。
二歳 男女児とも 頭巾・涎掛を碑へ掛けてくる。
十九歳の女 お椀(今は茶碗)日常使っていたのへ洗米と銭を入れて投げる。
二十五歳の男 財布へ洗米と銭を入れて投げる。
三十三歳の女 櫛、日常使っていたのを洗米と銭と一緒に投げる。
四十二歳の男 年齢数の銭を洗米と一緒に紙で軽くおひねりにし後向きに拡がるように投げる。
子供達は銭を拾うが厄の銭は家へ持ち込んじゃいけんといって外へ二三日置いた。厄投げに行くのは十四日の晩暗くなりあいで、人に会ってはいけないと隠れるようにして行く。厄落しの人に会うと厄をしょい込むと嫌う。
厄投げをした後、帰りに親戚や親しい家へ寄って、厄を落して来た報告をする。新年のことではあり、年始を兼ねて手土産を持って行く。先方では「厄を落しておめでとうございます」といって酒をご馳走してくれる。お茶だけのこともある。
つまり道祖神に厄をしょわせる。道祖神は皆の厄をしょって立つわけだ。すぐ下の市野瀬ではみかんを投げ、酒を一升ずつ厄の人が持って行って、どんど焼に集っている人々に振舞ったが、浦ではしない。
二月八日お事始め 藁で馬を作る。二頭飼っている家では二つ作る。丈二尺位、高さ尺以上で、顔や耳のあたりはミゴで作り立派なもの。小さな俵を藁で作ってそれへ餅を入れて藁馬の背の両側ヘー俵ずつ付けて道祖神の前へ引いて行く。そして中味の餅だけよその人のとくんでくる。この辺では昔は米を余り作らなかったから、米の餅を持って行ったのに、くんだのは粟餅でガッカリといった場面もあった。子供達は供えた馬を借りて来て遊ぶ。
これも大分前に廃れた。今馬を作れる人はないだろう。(小松荘平氏明治二十六年生・夫人明治二十七年馬越生、談)
浦からの分かれで更に奥の平瀬の模様を記しておく。平瀬は以前は浦から山道を辿ったが、今は浦を通らず、下の川沿いに行く。V字形の谷底に今五戸残っている。
ここの道祖神は部落の上の消防の鐘のある小さな峰にある。石灰岩の小さな奇石だ。どんど焼は、道祖神の前へおんべを正月十四日に立て十六日までおき、十四・十五・十六日の三日焚く。
厄投げは道祖神へ投げるのでなく、家の近くの辻へ人に会わないように投げる。投げる物は浦と大体同じだが幾分違い、むしろ丁寧である。銭と洗米のおひねりを投げるのは各年齢とも共通だが、その他に、二歳の男女、頭巾・前垂れ。七歳の男女、銭で七文。(代用に大根の輪切りを混ぜる)十九歳の女、鏡(日常懐に入れて使っていたもの)。二十五歳の男、小刀。三十三歳の女、櫛。四十二歳の男、財布(人によりお椀)を投げるという。(小松元康氏明治四十一年生・小松清隆氏明治四十四年生、談)
奥浦のことは現地で聞く由もないが、伊那市野底に移住して来ている人から聞いたら、十九歳の女は櫛、四十二歳の男は茶豌だったという。
市野瀬の小用でも頭巾・涎掛・財布などを投げるが、それと共に各年齢共茶碗を一つ道祖神へ投げつけ、壊れないと厄が落ちないという。(951~952頁)
高遠町藤沢松倉原
二月八日おことの餠を搗き、藁へくるんで行って「めっつり、はなっつり」と言って道祖神の目や鼻へ付ける。意味は、目吊り鼻吊りの婿を貰いたいと頼むと道祖神という人は意地の悪い人で、あべこべに良い婿を世話してくれるという。(中山久婆さん明治十六年生談)(956頁)
高遠町三義荊囗栗立
山室川を溯って、五色の滝入口という枝別れした道を登って行くと、すごい斜面にすがりつく、たった七戸の部落が栗立である。
厄投げは十四日朝。十三日晩夜中に高遠の権現様へお参りに出かける。歩いて高遠に着く頃はもう十四日、早朝そこの出店でお年取用品を買う。(それはもう早いうちから人が一杯出ていた。)そして家へ帰ってお年取をする。厄の人はその後で厄投げをする。厄年は男は七・二十五・四十二、女は十九・三十三歳。穴あき銭に大根を足して年齢数にし、茶碗と一緒に道祖神へ投げる。
前向きに投げて後を向かずにさっさと帰る。銭は通りがかりに拾う程度でわざわざ拾いには行かない。厄年はこの外男の二歳と六十一歳もそうだという。(三義那木沢)
どんど焼 十四日晩、名称は別に無く、ただ「お松を焼けえ行かんかい」と大人も子供も誘って行った。おんべ(色紙を切って割竹へ巻きつけたものや、お燈籠といって四角な箱で周囲に紙を貼ったものを長い竹へ飾り付ける)を建てる。おやす(御飯を入れて流しなど各所に供えた)と門松の三階か五階のものを七日に外しておき、おんべと一緒に十四日晩に焼く。おめえ玉(繭玉)
を十三日に作り、みずぶさの大きい木へ折れる程沢山付けてやっとの思いでかついで行って、お松焼きの火であぶって、奪い合いで食べた。虫歯を病まないと。また書初めを焼いた。二十日、年神様の飾りを焼いた。
二月八日おこと 七日の晩餅を搗いて小さい取り餅を十三個作る。八日朝それを幾つかに切って、五合桝に米を入れた上へ載せて行って各種の碑(庚申・甲子・道祖神など)ヘーつずつ供える。また藁馬を作って餅の小さな俵を二俵付けて、それを子供が連れて道祖神へ行って供えて、先の人の馬と餅と一緒のままくんで来た。餅は飼馬にくれたり子供も食べた。馬はなるべく顔のいいのを選んできた。子供の無い家では進ぜといて来る。昔は大勢子供があって一つじゃ足りないので、「買ってくる」と言って貰って来て遊んだ。
お宮参り 荊口の宝山神社へ参詣し、道祖神へもお参りする。(宮沢増伯氏夫人明治三十五年生談)お宮詣りに道祖神に参詣するのは三義辺の慣習だ。
門松を焼く行事の名称が特に無いという地方はかなり多い。芝平では「おんば焼」といった(伊藤ふくの氏明治二十四年生)あるいは「おんぼ-焼」といった(鈴木春己氏大正六年生)という。(956~957頁)
長谷村美和黒河内・伊那里中尾
長谷村伊那里の中尾は東方戸台方面から流れ下った黒川が三峰川に合流する所にある高台である。
そこの一番奥の家は今は同じ長谷村だが美和黒河内に属する。
道陸神笑い、正月十四・十五・十六日の三日間行った。火を焚きながら次のように歌った。
「道陸神という人は 馬鹿なような人で 出雲の国に呼ばれて行って じんだら餅に食いよって 後で家を焼かれた エンヤラワーイ」
じんだら餅というのは、青豆をひやかしてうでて手臼で碾いて、塩を混ぜたもので餅に付けて食べると旨い。食いよっては食べ過ぎての意だ。
門松だけでは足りなくて、みそぎを出してくれと村中子供達が貰って歩いた。
厄投げ 厄年は男二・七・二十五・四十二、女二・七・十九・三十三歳。十四日朝、年取後、茶碗に銭と大根人参の切れを年齢数にして入れて持って行き、お洗米と一緒に道祖神に供えてお参りし、その後、茶碗を道祖神へ投げつけてこわし、後を見ずに帰る。
二月八日おこと 藁馬を転がっても構わず道祖神まで引いて行く。その時しとぎ(生米をひやかして臼で搗いた粉で作ったお供え)を持って行って供える。お重へ入れて行くが本来は馬へ付けて行くべきものだ。拝んでしまうのを子供達は待っていて、取りっこをして家へ持ち帰って焼いて食べた。藁馬は供えたままである。(供えるのは道祖神様へというより、辻神様へ供えると言った。)
さいの神によく涎掛けが掛けてあった。これは疱瘡を病んだ時平癒を祈り、なおるとお礼に掛けて来たものという。昔のことである。(西村孝次氏明治三十五年生談)
上中尾ではおんべを建てた。上に御幣、次に「道祖神」と書いた旗を垂らした。道祖神の南へ正月十三日に建て、十六日に下ろして御幣は焼いた。
門松 注連飾を焼く行事を溝口辺では「おしんめ-焼」とか「お松焼」とか言ったようである。おしんめ-は注連飾のこと。(957~958頁)
道祖神祭
高遠町長藤塩供
正月十四日昼 公民館に集まって酒を飲む。一年中に婚礼のあった家から酒を寄付してもらう。婿養子一升・長男が嫁を貰ったときは一升・嫁に出た家は五合といった具合で、この一年間の婚礼の報告をし、婿養子は親様が連れて来て挨拶する。また、厄年の人も酒一升出す。この日は兼ねて一年の村の計画を決める。(958頁)
高遠町藤沢水上土橋
一月十四日と二月八日の二回。当番が道祖神の辻へ幟「謹上道祖神」を建てる。木の燈籠に紙を貼って「奉納道祖神 昭和○○年一月十四日 二月八日」と書き、蝋燭をともしお神酒を上げる。当屋でお神酒を戴き、ご馳走を食べる。費用は仲間の十八戸から徴収する。最近では女ばっかり寄り簡単になった。(958頁)
伊那市美篶芦沢
二月八日講中七戸から一人ずつ当屋に集まる。「道祖神 講中」と書いた掛軸を掛け、お神酒を上げ、お線香を立てて皆拝む。その後酒肴で祝う。当屋に伝わる「道祖神講会費記入簿」によれば、昭和十二年二月八日に帳面を更新し、それ以前の事はわからないが、昔から毎年続けて今日に至っている。掛軸も古くなったので再調したものという。今年の例では、酒一升五合・肉一、二kg・豆腐一丁を買っている。(当屋、後藤正儀氏談)(958頁)
伊那市手良中坪
中坪の各部落単位で二月八日から十一日位にかけて行う。郷の坪では八日夕飯前大人も子供も集まり、田圃で火をたいて酒を飲み、菓子を食べて楽しむ。
日向では十一日にお燈籠を上げ、十一戸位の講中が当屋へ集ってお神酒を飲む。
米垣外では八日から二三日後、道祖神の辻で火を焚き、太鼓を叩き、酒一升位飲む。当屋二軒ではお煮染を持参する。(958頁)
高遠町三義山室川辺
八十八夜(今は憲法記念日に決めている)に甘酒を作り酒を飲み道祖神の前で祝う。(958頁)
高遠町三義荊口日向
八十八夜 当屋で甘酒を飲んで村中大騒ぎした。(三義辺では各地で行われた。久保では道祖神に甘酒を供え、通行人に甘酒を勧めたという。)(958頁)
獅子舞 高遠町三義山室
宮原・那木沢・新井・川辺・原・宮沢の各部落に獅子がある。宮原・新井では今も舞うが、他は廃れた。
宮原 今は一月一日午前十時から集会所で舞う。(昔はその後各家をまわり、道祖神の前で舞って収めた)悪魔を追払う。午後は一品持参で二十人位寄り酒五升位も飲む。
宮沢 元は十五日だったのが七日夕方になり、数年前に中止して今は舞わない。新井だけは男獅子。ここも女獅子で、鈴と幣束を持って柔和に舞う。後かぶりはすりこぎ棒とささらを持つ。別に太鼓があり、「皆三尺の斧さを持って悪魔を払う。それからや-れ、」と言って舞う。厄年の人は御祝儀を包んで、厄を払ってもらう。これに対し新井のような男獅子は剣を持って荒っぽく舞う。(959頁)
大文字(で-もんじ)伊那市西箕輪上戸・辰野町羽場・北大出・箕輪町東箕輪漆戸など各地で建てる。(959頁)
おんべ 辰野町川島一ノ瀬・辰野町上辰野・長谷村美和溝口・伊那里平瀬など各地に見られる。(959頁)
お飾り作り
伊那市富県大門 正月十四日、竹へ色紙の短冊を結びつける。「天の川」とか俳句を書く。柳(竹の枝へ紙を巻いて柳に似せたもの)を部落の戸数分作って竹へ飾る。道祖神脇の柱へ建てておき、二十日に倒して各戸へ配る。(荒城・本村でも同様)(959頁)
どんど焼について
名称 門松・注連飾それに古い神仏の飾り物などを焼く行事を当地では普通どんど焼と言う。これは全国的に通る名である。しかし下伊那ではほんやりと言い、松本方面では三九郎という。上伊那では北端の小野に三九郎が混り、南端の中川村・飯島町はほんやりで駒ヶ根市のうち南の方は混っている。その他、せ-の神を焼く(伊那市境・伊那市大坊・美篶青島)お飾り焼(高遠町勝間)おんば焼・おんぼう焼(高遠町三義芝平)お松焼(駒ヶ根市中沢李平・東伊那)おしんめえ焼(長谷村美和溝口)おしめ焼(駒ヶ根市中沢丸山)ぼんぼ焼(飯島町田切南田切)などそのものずばりの名や、意味不明のものなどある。
日時 小正月十四日晩が大部分。中には十四・十五・十六の三日間(長谷村平瀬・中尾)という所もあり、逆に最近ではやらない所もある。最近は四日や七日に外してすぐ焼くところもある。(959頁)
どんど焼の歌
高遠町三義山室宮沢
「どうろくじんのおばさまは 梨の木へのぼって ベベヘとげをくすいで つむで掘っても掘れないが 茶碗のかけらで掘っても掘れないが、お寺の和尚のちんぼうで掘ったら掘れそうだ ヤハイノヤハイノヤハイ」(北原国衛氏談)
この他中沢・中尾・溝口の例は先に掲げたので略す。(959~960頁)
以上長い引用をしたが、実は長谷村の事例の記述は以前にも似たようなものを引用している。例えば冒頭の伊那里浦の事例は、その3における『伊那谷 長谷村の民俗』に記載されているものとほぼ同じである。これは同書の信仰に関する執筆を竹入弘元氏が担われているためであり、長谷村に関する既刊本では『奥三峰の歴史と民俗』も同氏によって執筆されている。ようは旧長谷村に関する事例報告の多くは、竹入氏によるところが大きいわけである。
さて、その内容から捉えると、道祖神のことは「道祖神」と表現しており、火祭りについては「どんど焼き」である。何よりこれら事例を集めたとき、現在の伊那市エリアの中では、旧高遠町や旧長谷村の事例が顕著に多く、旧伊那市エリアの事例も、美篶や手良といった天竜川左岸の事例に限られている。偏りがあるといってしまえばそれまでであるが、今回の違和感の発端となった天竜川右岸山麓の事例があまり拾われていないところに、結果的に違和感の所在があったとも言えそうだ。
なお、引用の最後に「どんど焼について」がある。名称について概説されているが、「せ-の神を焼く」について伊那市の境や大坊、美篶青島の事例としてあげている。やはり旧伊那市内においては、「せーの神」という呼称が存在していることは確かなようだ。
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