かつて神経質な方だと言われたこともある。若いころは人に何を言われているか、ということを強く意識したものでそんなことがそう言われる所以ともなった。確固たる地位を今もって築いているわけでもないが、「若い」とはそういう不安定な意識を当たり前のように抱くもの、というのが今振り返って思うことである。若いころにくらべるとそんな意識は日々の暮らしからすっかり消えた。ようは神経質だと自ら思うような場面に出くわすこともなくなった。年老いることで他人のことをあまり気にしなくなった、ということなのだろうか。
とはいえ、唯一神経質だと思うような場面がある。以前にも触れたことがあるが、風呂に入っているときのことである。癒される時間といえば湯船に浸かっているとき、とは多くの人が抱くだろう。静穏なときとも言える。そんな世界で目の当たりにするのは湯船に張られた湯面である。この湯面に例えば垢が浮いていたらどうだろう。目の当たりにする世界だから神経質でなくても気になるもの。かつての風呂といえば水が貴重という意識があったからか、それほど水を張り替えることはなかった。したがって薄暗い湯船に垢が浮くという景色をよく見ていたものだ。当時はそれほど気にすることもなくそんな風呂に入っていたが、それは薄暗いという環境がそうさせたのかもしれない。ところが現代の風呂場はてとも明るい。したがって湯面に浮くゴミにしても髪の毛にしてもすぐにそれとわかるし、それを気にせずに癒しのときを過ごすことはちょっとわたしにはできない。そこでそんな湯面に浮いたものを掬うわけだが、そんな所作を繰り返している自分を「神経質」だと感じるわけだ。
我が家では1週間の日々で風呂に入るのはほぼわたしだけ。時おり妻も入るが一度水を張ると数日その風呂を焚き返して使う。その一度の中で妻が一度利用するかしないかのレベルである。妻が利用しないのは介護のため実家泊まりがあるからだ。年老いて新陳代謝のあまりないわたしが風呂を利用してもさほど湯が汚れることもない。したがって数日使うということになるのだが、さすがに数日目ともなると少なからず汚れも嵩んでくる。そんなときこの「神経質」な行動をとるわけである。
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