屋敷背後の堰(令和3年5月24日撮影)
ある生業外の仕事にかかわって、旧豊科町真々部を訪れた。そこで「ノミセギ」に注目されている方に、これは千国街道筋の文化かもしれないと言われ、検索してみたものが「呑堰」である。初めて耳にした単語であるが、イメージで捉えれば「飲み水の堰」となるだろうか。現在は飲み水ではないが、元来そうした意味を含んでいたということで、それにかかわる看板が真々部区歴史研究委員会において現地に立てられているようだ。その説明には「この堰は、1550年代武田信玄により、真々部城下の呑み水確保と真々部城(館)周囲の堀への給水を目的に開削されたため、呑堰と呼ばれている」とある。飲み水のみのためではなく堀への導水も兼ねていたということになる。全長は5キロにわたり、真々部に至ると分岐して幾筋にもなっている。元来は飲み水の意図もあったのだろうが、灌漑用の水として、地域を発展させてきたのが事実のよう。注目されている方によれば、灌漑用とは分けて別筋に集落に導水されていたのではないかという。
真々部には「町通り」と言われる、いわゆる千国街道がまっすぐ南北に走る。その街道筋に家々が連なっており、まさに「町」を形成していたのだろう。その西側背後は水田となっており、幾筋もの用水路がある。この背後地は、集落から捉えると、若干高い位置にある。したがって灌漑用の用水は、そのまま生活用水にも利用可能だ。したがって飲み水としての機能は、そのまま期待できる位置にある。そして確かに屋敷の背後に現在も用水路が導水されており、「呑堰」の景観を思わせる空間が、そこにはある。実際は「呑堰」と名づけられている真々部呑堰はここまで至っていないが、分岐後の現実的な生活用水の姿が垣間見られる。
やはり簡易水道に関する「梓橋簡易水道の取水槽跡」という説明板もあるらしい。大正5年に簡易水道を造ることになり、呑堰脇に取水槽を設置し竹菅や木管をつなげて水を引く工事をしたという。いわゆる「こし井戸」になるのだろう。松本平ではこし井戸の話を現在でも多く耳にすることができる。扇状地であるから、水を引かなければムラはできなかった。「呑堰」なる言葉が生まれたのも理解できる。
ということで、「呑堰」で検索してみると、やはりトップには安曇野のものが引かれる。そして大町にある若一王子神社は「町割りに重要な呑堰の分岐点に祀られ」たという。同じく旧豊科町成相新田宿の小路について「千国街道の伝馬宿として栄えた旧成相新田宿。呑堰のある小路には、当時の風情が残っています」というものも見られた。やはり千国街道沿いに「呑堰」が多く分布しており、それらは、どうもマチを造るのに必要だったものだとわかる。さらにこの地域だけではない「呑堰」の存在は、武田信玄がらみなのか、笛吹市にも見られるし、熊本市にもあるようだ。
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