過去を振り返るようになると、もはや前向きではなくなったと悟られそうだ。そして事実、過去の実績を紐解きながら「あの時は…」などと回想するのだから、前向きであるはずもない。そういう年になったし、そうでもしなければ今の自分が見つけられないという残念な想いも、そこにはあるのかもしれない。今や年下の者に何を言っても理解してもらえない、どころか、同い年だろうが、年上だろうが、同じ土俵で話?、取っ組み合いなどできはしない。これもまた残念なこと、とわたし的には想う。
さて、平成25年の9月22日に次のような「運動会の季節」という日記を別のブログに残している。
今年も体育の日が近づいてきた。毎年区民の運動会が行われるのだが、我が家は高齢化してきたから最近は用がなくなった。もちろんその方がありがたいのだが、いずれ地区の役員が回ってくると、顔を出さなくてはならない時代がやってくる。
ところで今年もその運動会の案内が配布されたが、別に「町民運動会の飲酒運転防止について」というチラシが一緒に配られた。以前乞われて参加していたころも、昼ごろになると「飲み物が用意してある」と言ってアルコールが配られていて違和感を感じたものだ。もちろん一度もいただいたことはなかったが、今でもそれは続いているようだ。そもそも運動会にアルコールが必要なのか。飲酒運転以前の話だとわたしはおもうのだが。
先ごろ九州の自治体議員が甲子園でタバコを吸っていただの、缶ビールを飲んでいただの明るみになっていたが、地域の活動に「酒」がつきものというイメージを持っている人はまだまだ多い。そもそも論として何のための「運動会」なのか、といあたりから議論しないと、もう地域社会は成立しないほど皆がひとつ目標に向かわなくなった。みんな面倒くさいけど「仕方なくやっている」という雰囲気。
ところで、この日記に書いたような役が回ってきた。ところがコロナだ。ちょうどよいことに「中止」の嵐でラッキーな状態。別に用意するのが嫌だから、というわけではないが、これを機に必要性を議論するくらいはしてほしいのだが、それも叶わないほど、みんな厄介に思っている「お荷物」である。
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