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徴兵と戦火のはざま 後編

2022-08-14 23:27:05 | 歴史から学ぶ

徴兵と戦火のはざま 前編より

 徴兵制は前回も述べたように20歳から40歳までだったが、末期には19歳に引き下げられている。実は我が家には太平洋戦争に出兵した者はいなかった。父は昭和3年生まれだったからその歳に達していなかった。実際は少年兵として出兵して昭和3年生まれの方でも亡くなった方はいたようだが、父は招集には至らなかった。父は長男だったから、もちろん弟さんたちが出兵することもなかったわけである。いっぽう妻の父は終戦を万里の長城で迎えたという。大正9年生まれの長男だった。このようにわたしの父の世代は、招集されたかされなかったかという境界域にあった。父が長男でなければその兄弟で出兵した者もいたかもしれないが、環境的に境界域であったことは、そうした家族構成によっても左右されたわけである。

 父は出兵していないが、祖父はそれ以前の戦争に出兵している。日露戦争である。地元の区誌に次のように記されている。

大正四年には、「十一月二十五日に、除隊兵〇〇、〇〇、〇〇、〇〇四氏の帰郷を中田切橋まで出迎う」「十二月十三日〇〇氏を中田切橋まで出迎う」翌日「十一月二十六日 入営兵〇〇、〇〇、〇〇、〇〇、〇〇五氏ヲ村境ナル中田切橋迄送ル」などと記されている。中央線の辰野駅が開通したのは明治三九年であるので、村境から辰野まで歩くか、馬車にでも乗っていったのであろうが、大変なことであったろう。

冒頭の除隊兵の〇〇に祖父の名がみえる。もちろん祖父の年齢で太平洋戦争に行くことはなかった。まさに我が家は狭間にあった家族だったと言えよう。そして祖父から戦争のことを一言も聞いたことはなかった。

 さて、終戦記念日が近づくたびに戦争にまつわる報道や、催しが盛んとなる。父が生きていたとしたらすでに90歳をとっくに越えている。ようは戦争体験のある人は限りなく少なくなっている。『伊那路』最新号である8月号において、矢澤静二氏が「満州開拓青少年義勇軍とはなんだったのか〈上〉-鉄驪義勇隊小池中隊 橋爪五郎氏の体験から考える-」を寄稿されている。副題にもある橋爪五郎さんは父と同じ昭和3年生まれである。16歳で青少年義勇軍に行った。反対する親もいれば、親に無断ではんこをついてまで行った人もいたというが、とはいえ行き手は少なく、数合わせに学校の先生は苦労したようだ。「今でももう一度満州に行きたい」と記した橋爪さんに、盛んになぜ行ったのか、そしてなぜ今も行きたいと思うかという疑問を繰り返し矢澤氏は聞く。例えば「橋爪氏は、もう満州は懲りたとか、満州はもうこりごりという感じじゃあないですね」とか「満州が良かったっていう人はあんまり聞いたことないもんで」という具合に問う。質問する側に先入観があって、満州は大変なところで、苦労ばかりで、…という言葉を繰り返し質問に織り交ぜる。橋爪さんの場合戦争体験というよりは、開拓の体験である。もちろん引き上げ時の苦労は想像もできないが、体験者がいなくなるにつれ、固定観念とか先入観のようなものが後世への語りの根底に根付いてしまうのはどうかと思うわけである。既に「あのころ」を語ることはできる人がいても、実際の戦争のことを語れる人は少ない。「あのころ」のことを語ってもらうのも必要かもしれないが、そのまま戦争体験と同質のものとして、聞く側が捉えてしまってはいけない。そのあたりがずいぶん曖昧になってきている、そう思わせる記事が目立つようになった。

 信濃毎日新聞の12日文化欄に「日記に見る満州と敗戦」という記事が掲載されている。 7月に満州から引き揚げた人の当時の日記を翻刻刊行された「崩壊と復興の時代 戦後満州日本人日記」に触れ、日記の筆者は国策企業の幹部らであったという。都市生活者が中心で開拓団員ではないということから、その内容は開拓団員とは「立場の隔たりを感じた」という本島和人さんの意見を導いて記事の主旨をうかがわせる。こうした誘導的意図とも捉えられるものは、近ごろ新聞報道に目立つ。満州には開拓団員のみ渡ったわけではない。さまざまな人々の思いがあったであろうことを、裏を返せばこの記事は提供している。しかし、読み手がどのように受け取るのか、そこに時代の変わりようを覚えるとともに、気になるところでもある。


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