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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

南宮神社初祭り「山車飾り」

2023-01-07 23:48:19 | 民俗学

五つ灯篭と干支飾りを見る参拝客

干支飾り(兎が月から出てくるように、前後に移動するように仕組まれている)

 

「二刀流今昔」

 

筒粥神事を待つ境内

 

境内には露店も

 

 箕輪町木下南宮神社の初祭りを訪れた。いわゆる南宮神社の祈年祭に当たる。かつては1月11日が祭日であったが、現在は第2日曜日を本祭としているよう。よって今日が宵祭りとなる。何といっても筒粥神事が祈年祭の中心になるが、それについては後日触れるとして、「山車飾り」について記しておく。山車飾りについてはあのり認識していなかったが、友人が何度となく南宮神社を訪れ調べられていたので、一緒に今年米寿だという岡久幸さんに話をうかがった。「山車飾り」というから山車に飾られているイメージをするが、ここではいわゆる舞台のような山車ではなく、山車を神の依り代として捉えられている。したがって飾り付けられる場所は飾り用の舞台、あるいは飾り場といって良いだろう。通常は六つの山車飾りを作るというが、金銭的な都合とコロナ禍を経て3年ぶりの飾りだということで、二つの飾りとなった。

 国道153号線に面した鳥居をくぐったすぐ右手に小さな山車(小屋)があり、そこへは干支にちなんだ飾りがされる。今年は兎年ということで、もちろん兎が登場するが、兎が2羽が月で餅つきをしている場面である。説明板には次のように記されている。

今年は十二支の四番目にあたる卯年です。
兎は穏やかで温厚な性格であることから、「家内安全」の意味を示します。また、跳ねる特徴があるため景気が好転または回復すると言われており、「飛躍」「向上」を象徴する年になると思います。
『月にうさぎがいる』『うさぎが餅をついている』と言われて見上げると、確かにそう見える黒い模様があります。(黒い部分が月の海、明るい部分は陸と呼ばれています)日本や中国などアジアの国々では月の海はうさぎに見えると言われますが、ヨーロッパではカニ、アメリカでは女性の横顔など、国や地域によってさまざまに言われています。
最近、月面着陸を目指して国家間の競争が激しくなっています。
再度着陸に成功し探査が進めば、うさぎが本当にいるかどうか判別するでしょう。

 境内の南東の隅に作業所がある。山車飾り保存会の方たちが人形を製作する場所で、その神社側一角にも山車飾りがされている。例年山車飾りがされる6箇所にこの場所は入らないが、今年はここに飾られた。テーマは「二刀流」である。大リーグの大谷選手が話題であっただけに、今年の出し物として選択されたよう。ここにも以下のような説明板が立てられている。

二刀流今昔(今と昔)
二刀流の由来
『二刀流』は元々宮本武蔵が創始した二天一流という、いわゆる二本の刀を持って戦う剣術がその由来となります。両方の腕で二本の刀を操ることから、スポーツなどにおいても二つのことを器用にこなせることも二刀流と呼ばれるようになりました。ちなみに、お酒と甘い物両方を好むことも二刀流使い(両刀使い)とも言われます。
現在の二刀流の代表といえば、大谷翔平選手です。投げて、打っての二刀流はもちろんのこと、さらに走っても俊足ということで大活躍です。
今年三月には第五回WBC(ワールド・ベイスボール・クラシック)が開催され大谷選手も出場予定です。その雄姿が日本で見られると思うとファンは楽しみです。
二刀流の元祖と言えば宮本武蔵です。絵江戸時代初期の『剣豪』または『剣聖』と称されていました。京都の兵法家・吉岡一門との戦いや、巌流島での佐々木小次郎との血統が有名です。自著『五輪書』は有名ですが、後には芸術家でもありました。

 これら人形製作には穂高人形の保尊さんの力を借りているというが、今年は山車二つという小規模たせったこともあり、以来はされなかったという。例年であれば、干支人形の山車のほか、拝殿左手の庭に鉄骨で組んだ山車、拝殿右手の既成の山車(プレハブ小屋)2棟、その前庭に子ども用の山車、以上境内に五つの山車を飾り、近くの木下駅のそばにもう一つ作られるという。

 これら山車飾り始まりは明治初年に高遠から移り住んだ笠原雄次郎が高遠鉾持神社の例祭にあった山車飾りのように飾ったらどうかと唱えたことに始まるという。現在では見る影もないが、かつての木下はマチであり(町割りの姿は現在も見られる)、商店がそれぞれ人形飾を始めたのだという。その意図はもちろん祈年祭に訪れる人々をお客にしようという商売繁盛を求めた視線だったという。その後青年会でも山車飾りをするようになったが、戦時中の昭和19年、20年は途絶えたという。それぞれの歳に何が飾られたかという記録は明治44年から残されており、それら詳細については『伊那路』564号(平成16年上伊那郷土研究会)へ蟹沢広美氏によって報告されている。明治32年の初祭りの記録には、境内2箇所のほか商店など24箇所に飾られたという。また蟹沢氏によると最盛期は30箇所以上飾られたという。終戦直前には米英を倒すという意味で、ルーズベルトとチャーチルを倒す場面の人形が飾られたという。昭和35年ころそれまで山車飾りの中心的存在であった商工会が実施できなくなり、現在の保存会に委ねられるようになったという。ちなみに蟹沢氏の報告では山車飾り保存会が結成されたのは、昭和53年と記されている。人形については、穂高から購入したものもあるようだが、自分たちが製作したものも多いよう。現在は子どもたちが作ったものも利用している。岡さんが言うには、保存会規約に区会議員を会員として組織するようにしたことにより、区会議員を辞めた後にも会員に加入してくれる人がいて、会員確保に役立っているのだという。とはいえ、コロナ禍によって2年中止され、この後以前のように六つの山車飾りを出すことができるかどうかは難しいとも。戦時中とコロナ禍は大きな危機だとも…。


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