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伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

伊東伝兵衛生誕の地へ

2022-08-24 23:53:46 | 歴史から学ぶ

「伊東伝兵衛生誕郷」碑

 

 三峰川の杉島橋を渡ったところを「伊東」という。当たり前に「伊東」という家が多いが、その西側の集落を「田本」という。このあたりをうろうろしていて気がついたことがあった。ふだんから「伊東伝兵衛」のことは仕事柄よく耳にしていたのに、その生誕地がどこなのか記憶に残していなかった。そう言えば「長谷の奥の方」だと聞いた覚えがあった。そして偶然遭遇したのが「伊東伝兵衛生誕郷」という巨大な緑色片岩の碑だったのである。田本にも「伊東」という家が何軒もある。その集中しているところにこの碑は建っていた。背面には次のように記されている。


 伊東伝兵衛は享和元年(一八〇一)現長谷村の杉島に生まれ、聡明にして幼少より学を好み、長じては村の名主を勤め、各地の土木事業に携わった。
 天保二年(一八三一)伝兵衛は藩の許可を得るや、佐久の柳沢弥左衛門が完成できずそのまま百余年放置されていた鞠ケ鼻地籍の井筋回収に着手私費を投じて鞠ケ鼻千メートル余を掘り抜き、天保四年遂に全長一万メートルに及ぶ通水に成功した。世人この井を今尚伝兵衛井と呼んでいる。伝兵衛は終生川除け治水・開田に意を注ぎ、その事蹟は実に十数ケ所に及ぶが伝兵衛井筋のほかその主なものは次の通りである。
 天保三年から五ヶ年村内鷹岩井筋の開削に当り、未完に終わったとはいえ心血を注ぎ塗炭の苦を味わった。次は安政二年(一八五五)長谷村から河南村への上井の開削及び分久二年(一八六二)からの下井開削、上井は廃井と化したが、勝間地籍に残る改修後の下井には現在美和ダムからの水が注がれ、小原地籍を貫流している。藤沢川から美篶地籍に引水した二番井の工事、更に翌安政五年から六ケ年を要した現辰野町地籍の上伊那井筋もある。以上を後人は伝兵衛五井という。
 伝兵衛は業なかばにして文久(一八六二)その生涯を閉じた。その後大正七年(一九一八)従五位を追贈されている。昭和三十年代の綜合開発の恩恵は多大であるが、それは伝兵衛の偉業の上に附与された近代化学の力と言えよう。 平成十一年十一月吉日 元長谷中学校長 長谷村誌専門委員 宮下慶正撰書

 ここで言う伝兵衛五井、その半分くらいの距離は井に添って歩いている。鞠ケ鼻から取水した春富大井は、すでに廃井となった区間が長いが、いずれも伊那地域の主たる井筋である。それほど一般人にくらべたら「伝兵衛」のことを知っていたはずなのに、ここが生誕地とは記憶になかった。ちなみにこの碑、平成11年に建立されているから、最近よく引用している『奥三峰の歴史と民俗』(長谷村教育委員会 平成6年)に記載はない。


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