Cosmos Factory

伊那谷の境界域から見えること、思ったことを遺します

記憶に残る風景

2005-11-30 12:33:51 | つぶやき
 記憶に残る風景というものを、自分の頭の中で思い出してみると、さまざまなものが浮かんでくる。しかし、どうだろう。子どものころの思い出というものは、意外にも色彩が乏しい。たとえば昔の写真を引っ張り出してくると、中学生くらいになるとカラー写真が残っているが、それ以前となると、カラーはまれである。子どものころの白黒写真をながめていても、何色だったか思い出せないし、ましてや同じような風景に、現在みる色を、その写真に彩らせることはできないのである。それほど昔の色を覚えていない。また、たとえカラー写真であっても、色あせた写真からは、それらしい色を認識できるだけで、その色がとくべつ意味を持っているとはかぎらない。だからこそ、記憶の中にあるイメージとか風景には、色彩が乏しいのである。特別記憶に残るものが、色をイメージしているものであれば、その記憶が強く残るかもしれない。トマトの色とか、りんごの色などのように、個別の一物体を印象としてもっていれば、けして色彩が乏しいわけでもないが、色を強く意識しないような記憶は、どうみても霧の中に包まれている。
 わたしの家にはカメラというものがなかった。昔はどこの家でもカメラがあったわけではない。教員には必需品だったから、家族に教員がいると、古い写真が多く残る。しかし、農家がカメラを持っているということはなかった。わたしがカメラに興味を持ち始めた中学のころ、親戚からもらったレンジファインダーのカメラが初めての我が家のカメラだった。当時は今と違って、白黒写真の方がカラー写真より、現像するにも焼付けするにも安かった。そんなこともあって、中学のクラブでは写真クラブに入って、自ら印画紙へ焼き付けるということもやった。その後10年くらいは、白黒の方が安かった。そんな時代の写真を知っている者には、現在のデジタル環境は想像すらできないものだった。携帯で写真が撮れるのだから、かつてのめったにカメラがなかった時代に比べれば、変化は大きい。とすれば、それだけ多くの人々が写真としてさまざまなシーンを保有しているわけで、映像資料は昔にくらべれば莫大である。
 わたしは記憶にある場面に色彩が少ないといったが、こうした現在の映像氾濫時代の子どもたち、あるいは若い人たちには、記憶に残る映像に色彩があるんだろうか。常の環境が変化していけば、ひとの認識機能、記憶機能というものも変化していくのかもしれない。
 「モノクロの彩り」というホームページを開いた。更新もしなかったHPを久しく更新するようになったら、たとえば容量の問題もあったりして、従来から保有していたページには、重いデータはたくさん置けない。そんなこともあって、先にも紹介したが、音声データは「音の伝承」で、画像データはこの「モノクロの彩り」で公開していくことにした。まさしく、わたしの記憶は、どちらかというとモノクロである。でも完全に白黒ではない。何かしらの色が少しではあるが、記憶には残っている。白黒ではなくてモノクロなのである。
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