長田の現場に行く際に下古田(箕輪町)を通った。意外にも道を走りながら双体道祖神が複数目に入った。誰でもそうだろうが、車を運転していてふと気になる景色というものがあるだろう。意識していなくても咄嗟に思いつくこともある。この日のそんな場面が道祖神だったのである。西の山付けにある下古田は、県道与地辰野線に沿って集落がある。北の沢という川の端にある双体道祖神は、破風型のもので高さは50センチほどのもの。隣に「道祖神」の文字碑が、そして前の草むらの中に小さな奇石が埋まっているが、これも道祖神の一種である。脇に一級河川北の沢の起点標があるが、この沢の北側にも今はかなりの家が建っているが、戦後間もなく米軍が撮影した航空写真を見ると北の沢の北側にはすぐ端に数軒家が見えるがほかには家はなかった。ようはこの川が境界域という印象を受ける。文字碑はさほど古さを感じないが、碑には割れ目が入って痛々しいほどで、鉄枠で崩れ落ちるのを避けるために補強してある。いっぽう双体道祖神はかなり磨耗が進んでいて、顔の表情を正確にうかがうことはできないが、肩を組んだ祝言像で向かって左側の神様は右手に徳利を持っているようだ。
ここからそう遠くない下古田の公民館のある交差点に大きな庚申塔が目に入る。その中に庚申とはくらべものにならないほど小さな道祖神が3体祀られている。ひとつは石祠型のもので碑の高さは40センチほどの小さなもの。年銘はないが、「帯代二両 下古田村中」とある。石祠の中には小さな握手抱擁の双体神が納められている。実はここにある3体の道祖神にはすべて「帯代」の銘文が入っている。もうふたつはどちらも双体のもので、ひとつはだいぶ磨耗が著しくもひとつは像容がはっきりとしたそれほど古さを感じないものである。銘文は「安永八巳天亥四月八日 帯代三両 下古田村中」とあるのだが、2体共に同じ銘文なのである。どうみても彫られた時代は異なるとその風化の状態から察するわけで、おそらく新しい方の道祖神の制作年代は明治以降のものと見える。このことについて『上伊那郡誌』に「大正頃、村人某が右碑を痛め再建したもの」と記載がある。ここでいう「右碑」とは本来安政8年に建てられたものを言っているわけで、したがって新しいものはこの伝承からうかがうと大正年代のものということになるだろうか。
「帯代」とは道祖神を嫁入りさせた結納代のようなもの。ようは道祖神盗みの風習があって、よそから盗んできた道祖神ということになる。道祖神で有名な安曇野のものにもよくこの「帯代」が刻まれているわけであるが、伊那谷でも辰野町には「帯代」が刻まれた道祖神がたくさん現存している。ただ辰野町以南では箕輪町に数体あるのみでそれより南に下ると「帯代」の銘文は見なくなる。
公民館辻の大正年代に造立されたと思われる双体道祖神
北の沢端の双体道祖神
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