伊那市上新田の道祖神
長野県民俗の会第228回例会が伊那市で行われた。先ごろの総会報告でも会員の減少が課題になったが、伊那市のある南信エリアの会員数は、県内でも東信に次ぐ少なさ。いっぽうで飯田市を中心に活動している某会は独自にこの地域の会員を有していて、なんとも飯田らしい県内の立ち位置をいまだに表している。このことを話題にすると、我が家では必ず口論になる。それそのものが「飯田」の人々を表していると、わたしは思う。それを知らずに飯田にアプローチする人々も多く、面倒くさいことになる。下伊那に住みながら、この地域に抵抗感を持つ唯一、とは言わないまでもひとりである「わたし」なのである。これもまた、わたしの主要テーマのひとつでもある。
さて、例会の内容については後日に回すとして、意外にも話題になったことについて真っ先に触れることにする。「盃状穴」である。さすがにわたしも長年日記を記してきたこともあって、すぐに思い立たなかったが、関連ワードで検索していると、自らのページにリンクして驚くことが、最近はよくある。「かつてこんなことも書いていたんだ」、とウェブ上で教えられるという皮肉さ。その記事のことは後日として、この「盃状穴」については、縄文時代にも存在するような古い歴史がある。したがって古い時代のものかというと、そうでもなく割合新しい存在でもある。ところが、伝承範囲のものかというと、そうでもない。その実態がいまひとつわからないのである。
伊那市の天竜川東岸にある上新田の四辻に庚申などともに道祖神が祀られている。隣には「道祖神」以前のものかと思われる自然石、いわゆるこの地域で奇石と称している道祖神も祀られている。したがって「道祖神に銘文はないものの、それほど古い時代のものとは思えないが、その道祖神の碑石頂部にこの盃状穴がいくつか見られるのである。この道祖神の存在は以前確認していたが、あらためて例会で立ち寄ると、この盃状穴を指摘されてわたしも気がついた。指摘をされた方たちはこの盃状穴の意味は知らない。だからこそ「これは何?」となったわけである。あらためて見てみると、周囲の石仏のいくつかにもこの盃状穴が見られる。もちろん自然なものではなく、意図的に窪みがつけられたもの。わたしにはこの窪みの意味がわかっていたので、「かつて子どもたちが草を突いてできたもの」と紹介したのだが、具体的にどのようにすればこのような盃状穴ができあがるのか、説明ができない。どうだったのだろう、と思い帰宅後幾多の書物をひっくり返してみたが、すぐに探し出せない。そこでウェブ上で少し記憶にあった「こんぼった石」で検索してみたら、自らのページがリンク上にあった、というわけだ。
盃状穴についてwikipediaには、「岩石や石の構造物等に彫られている盃状の穴の事」とあり、「世界中で見られ、再生や不滅のシンボルとして信仰されてきた。女性シンボルと関係があるとされ、現在でも病気の治癒や子宝に恵まれる事を願って信仰されている。ペッキングという方法で彫られたもので、蟻地獄のような形をしており、幅は3、4センチから10センチある。穴の少ない石と多数の穴が開いた石があり、別の用途があったのではないかと考えられている。」とある。ペッキングとは「つつく」を意味する。では何で「つついた」かとなるが、伝承では前述したように「草をつついた」ということになるのだが、草でつついてこんなに凹むはずもない。wikipediaにも「彫られた」という表現はあるものの、具体的にどう造られたかについて表記されていない。
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