昨日の自分のブログを読み返してみたら、なにか思いっきり名古屋人を批判しているような文章になってしまっていたような気がして・・・、私も名古屋人の中の一人、全然そんなつもりはないんですが・・・。(笑)
ただ、この生まれ育った名古屋を愛するがあまりに、少しだけ、外から見た名古屋のイマイチ垢抜けない印象に歯がゆさもあるのかも知れません。
名古屋は、はたして”都会”なのでしょうか?
そんな漠然とした疑問・・・・・・・。
外から見ている人間は、どうなのでしょう?
名古屋人自身は、どう思っているのでしょう?
ここ名古屋は、絶対的に人口が少ない、平均年齢が高い、また所得が低い、などという行政の根本的な問題を抱えている田舎町ではありません。
こんなに環境に恵まれているのに、はたまた競馬自体はこんなに中央競馬が発展しているのに、なぜ名古屋競馬は衰退してしまっているのでしょうか?
これは、私の、名古屋は都会であるのか?という疑問の出発点です。
私が名古屋を出て、首都圏に長く住んでいた頃、心の中にうっすらと感じていたのは、大都会とはビジターの人種の集まりであるということです。
確かに江戸っ子とか、その土地々々には必ず土着の人々がいるにはいます。
でもこの現代、都市と呼ばれるところにはビジター(他に故郷のある人)が圧倒的に多い。
それは世界的に見ても、ニューヨークや北京、上海・・・、大都会と呼ばれる都市は全て同じであると思います。
ビジターの人間にとって必要なことはなんでしょう?
それは、まず”受け入れること”です。
どんな野望を持って移り住んできた人間でも、ビジターの人間である以上、初めにすることはその土地になじむことです。
都市の人間は何度となく、その受け入れることを繰り返し繰り返し行ってきています。
都市とはそうした人間が大量に集まってできているコミニティーであり、都市の文化とは、(誰もが気付かないうちに)そうして生まれる文化なのだと思います。
だからいつも、都市の人々の感性は流動的で、敏感で、(だからこそ次々と新しい流行が生まれるのでしょうが)、しかしながらそこにいる一人ひとりは、ある意味誰もが不安で、どこかに孤独感を抱いて生きることを余儀なくされます。
それは、ビジターの人間とホーム(土着の人々)との決定的な違いです。
ホームに生きる人々は、(自身それに気付いているかどうかにかかわらず)保守的で慣例を重んじ、まず深い安心感の中に支えられた既存の価値基準で”新しいもの”や”他人”と対峙します。
少なくとも今、再び名古屋に帰ってきて、私は確信的に感じることがあります。
それは、名古屋は、いまだ大多数のホーム(土着)の人間の集まりであり、また彼らによって成り立っている”都市”であるということです。
大阪のように、経済にも文化にも(競馬新聞に対抗○印のつくような)日本中に認められた確固たる地位があるわけでもないですが、それでも、トヨタという日本一の世界的な大企業があり、盟主ジャイアンツに負けないドラゴンズがあり、グランパスなどどんなスポーツにも愛着を持てるホームチームがあるように、名古屋(愛知)人には、心のどこかに”ホーム”の独自の大きな誇りと自信があるのです。
だから名古屋は大都市であるにもかかわらず、そこに流れている人々の意識や文化には、いまだ農村のようなホームであるがゆえに生じる既存の価値基準を重んじる風潮が根強く残っているのです。
名古屋は、”都会”であって”都会”ではないのです。
私が名古屋をイマイチ垢抜けない”閉鎖的な都会”と感じるところは、新しいものを受け入れにくい名古屋人の気質・・・、から来るものなのかも知れません。
大都市にもかかわらず保守的で新しいものを受けいれにくい田舎の気質・・・、それが良くも悪くも名古屋競馬の現状を表しているような気がしてなりません。
それでは具体的に・・・、なぜ名古屋人は名古屋競馬場へ来ないのでしょう?
施設が乏しい。施設が古い。
平日の昼開催。
馬の頭数が少ない。
番組がつまらない。
馬券の魅力がない。
・・・・・・・・・・そんなわかりきったことは、いまさら言うつもりはありません。
それらはただ苦しまぎれの赤字対策のためであり、すべては連鎖のようにつながっています。
だからといってこの御時世、誰が財政の大金を、儲かっていない公営ギャンブルに使うことを許すでしょう?
もはや儲からないものにお金を出せるような余裕のある時代ではないのです。
これは名古屋競馬に限らず、地方競馬のジレンマであることは、もうすでに周知の事実です。
こればかりはもう、山は動き始めてしまっています。
私達ファンにはどうすることもできない。
ただ祈るのみ?、いや応援するのみ、・・・少なくともそういった風に一握りの砂を投げるような外側からの活動をしていくのみです。
ただ、その根本としてある部分。
お客さんを呼ぶためにできること。
収益を上げるためには、まずそこです。
ここを考えることができるかが、全ての始まりのような気がします。
競馬の魅力とは何か?
それをいかに伝えられるか?
名古屋人の気質や意識をふまえた上で、できることを考える・・・・・。
それはまた、次回にでも・・・。
それでは、また・・・。
ただ、この生まれ育った名古屋を愛するがあまりに、少しだけ、外から見た名古屋のイマイチ垢抜けない印象に歯がゆさもあるのかも知れません。
名古屋は、はたして”都会”なのでしょうか?
そんな漠然とした疑問・・・・・・・。
外から見ている人間は、どうなのでしょう?
名古屋人自身は、どう思っているのでしょう?
ここ名古屋は、絶対的に人口が少ない、平均年齢が高い、また所得が低い、などという行政の根本的な問題を抱えている田舎町ではありません。
こんなに環境に恵まれているのに、はたまた競馬自体はこんなに中央競馬が発展しているのに、なぜ名古屋競馬は衰退してしまっているのでしょうか?
これは、私の、名古屋は都会であるのか?という疑問の出発点です。
私が名古屋を出て、首都圏に長く住んでいた頃、心の中にうっすらと感じていたのは、大都会とはビジターの人種の集まりであるということです。
確かに江戸っ子とか、その土地々々には必ず土着の人々がいるにはいます。
でもこの現代、都市と呼ばれるところにはビジター(他に故郷のある人)が圧倒的に多い。
それは世界的に見ても、ニューヨークや北京、上海・・・、大都会と呼ばれる都市は全て同じであると思います。
ビジターの人間にとって必要なことはなんでしょう?
それは、まず”受け入れること”です。
どんな野望を持って移り住んできた人間でも、ビジターの人間である以上、初めにすることはその土地になじむことです。
都市の人間は何度となく、その受け入れることを繰り返し繰り返し行ってきています。
都市とはそうした人間が大量に集まってできているコミニティーであり、都市の文化とは、(誰もが気付かないうちに)そうして生まれる文化なのだと思います。
だからいつも、都市の人々の感性は流動的で、敏感で、(だからこそ次々と新しい流行が生まれるのでしょうが)、しかしながらそこにいる一人ひとりは、ある意味誰もが不安で、どこかに孤独感を抱いて生きることを余儀なくされます。
それは、ビジターの人間とホーム(土着の人々)との決定的な違いです。
ホームに生きる人々は、(自身それに気付いているかどうかにかかわらず)保守的で慣例を重んじ、まず深い安心感の中に支えられた既存の価値基準で”新しいもの”や”他人”と対峙します。
少なくとも今、再び名古屋に帰ってきて、私は確信的に感じることがあります。
それは、名古屋は、いまだ大多数のホーム(土着)の人間の集まりであり、また彼らによって成り立っている”都市”であるということです。
大阪のように、経済にも文化にも(競馬新聞に対抗○印のつくような)日本中に認められた確固たる地位があるわけでもないですが、それでも、トヨタという日本一の世界的な大企業があり、盟主ジャイアンツに負けないドラゴンズがあり、グランパスなどどんなスポーツにも愛着を持てるホームチームがあるように、名古屋(愛知)人には、心のどこかに”ホーム”の独自の大きな誇りと自信があるのです。
だから名古屋は大都市であるにもかかわらず、そこに流れている人々の意識や文化には、いまだ農村のようなホームであるがゆえに生じる既存の価値基準を重んじる風潮が根強く残っているのです。
名古屋は、”都会”であって”都会”ではないのです。
私が名古屋をイマイチ垢抜けない”閉鎖的な都会”と感じるところは、新しいものを受け入れにくい名古屋人の気質・・・、から来るものなのかも知れません。
大都市にもかかわらず保守的で新しいものを受けいれにくい田舎の気質・・・、それが良くも悪くも名古屋競馬の現状を表しているような気がしてなりません。
それでは具体的に・・・、なぜ名古屋人は名古屋競馬場へ来ないのでしょう?
施設が乏しい。施設が古い。
平日の昼開催。
馬の頭数が少ない。
番組がつまらない。
馬券の魅力がない。
・・・・・・・・・・そんなわかりきったことは、いまさら言うつもりはありません。
それらはただ苦しまぎれの赤字対策のためであり、すべては連鎖のようにつながっています。
だからといってこの御時世、誰が財政の大金を、儲かっていない公営ギャンブルに使うことを許すでしょう?
もはや儲からないものにお金を出せるような余裕のある時代ではないのです。
これは名古屋競馬に限らず、地方競馬のジレンマであることは、もうすでに周知の事実です。
こればかりはもう、山は動き始めてしまっています。
私達ファンにはどうすることもできない。
ただ祈るのみ?、いや応援するのみ、・・・少なくともそういった風に一握りの砂を投げるような外側からの活動をしていくのみです。
ただ、その根本としてある部分。
お客さんを呼ぶためにできること。
収益を上げるためには、まずそこです。
ここを考えることができるかが、全ての始まりのような気がします。
競馬の魅力とは何か?
それをいかに伝えられるか?
名古屋人の気質や意識をふまえた上で、できることを考える・・・・・。
それはまた、次回にでも・・・。
それでは、また・・・。