思想として個人への影響を考えるならは、ウイルスとプロパガンダはよく似ている。
感染した人と洗脳された人。
どちらも外見からはわからない。
社会全体からの俯瞰の思考をすれば過度に怖がるべきことではないのかも知れないが、個人としては絶対にしたくもないしされたくもないと考えるのが普通だ。
そのギャップに社会は大きく揺れる。
感染してしまったら立場は180度変わる。
洗脳されてしまったら立場は180度変わる。
社会全体の中の目に見えない善悪相関図なるものの位置付けも変わる。
その人個人の中心にある自我からすれば、ウイルス感染しようが何かに無意識に洗脳されようが、その人個人のさまざまなモノのそのほとんどは何も変わらない。
少なくとも自分自身はそう思っているはずだ。
それが社会の“fear”。
もう感染しているかも知れないよ。
もう洗脳されているのかも知れないよ。
自分のことが自分自身ですらわからない。
それが個人の“fear”。
その相反するふたつの“fear”が、いつの時代も“思想的な”社会の分断や悪意を生み出してきた。
今後はそのことを留意して行動しなければならないだろう。
情報が溢れかえり何もかもがわかるようになった今こそ、不意にその死角に見えなくなってしまったモノやコトの中に、世の中を動かしている 人の本当の思惑は隠れているのかも知れない。
社会の一員としての自分。
個人の立場としての自分。
それはつぶやきなのか意見なのか。
ネットの世界は曖昧だ。
ウイルスとプロパガンダは似ている。
どちらも人の“fear”をくすぐるものである。