鑑三翁に学ぶ[死への準備教育]

内村鑑三翁の妻や娘の喪失体験に基づく「生と死の思想」の深化を「死への準備教育」の一環として探究してみたい。

[Ⅺ 337] ヨブ記巡禮  (6) / 転げ回って吠えた‥母

2025-03-19 22:18:32 | 生涯教育

ヨブの妻の悲嘆、子どもを喪った悲しみの深さと深刻さ‥これをどのように表現していいのか「ヨブ記」にも手がかりはなくよくわかりません。それを私は私のごく近くの二人の知人の例をもって考えてみたいと思います。

小倉陽子さんという知人の例です。出版社の経営者であった小倉氏夫妻は私共夫婦の仲人でした。小倉夫妻には一人娘がいました。その娘さんは高校までは水泳で頑張り、大学入学と同時にゴルフをやるのだと言って入学直後からゴルフ練習に熱中する日々でした。大学入学の数か月後18歳の娘盛りの彼女を難治性の血液の病気が襲います。そしてわずか2か月ほどの闘病の後に天に召されました。その後の日々の陽子さんの悲嘆の姿には胸を撃たれました。もぬけの殻になったような表情をして空虚を歩いているような彼女の心の裡が伝わってきました。ご主人は彼女が間違いなく自死を考えていると言い、昼間にはできるだけ外に連れ出したり彼女の親族を自宅に住まわせたりしていました。何の折であったかある時私は彼女の隣を歩いていました。いきなり陽子さんは振り向くと私に向かって言いました‥‥毎日毎日が地獄のようでどのようにしたら死ねるかどこで死ぬるかを考えているの‥あなたには決してわからないと思う‥どこでけじめをつけて死んだらいいのか‥‥と。私は返答の言葉が出ませんでした。母親が花の盛りの一人娘を死なせた後の心の世界は、到底推し量ることはできません。陽子さんはそのまま歩を進めてあの海の蒼に身を投げるのではないか‥それだけは防がないと‥そんなことを私は考えていました。陽子さんが八十歳近くで亡くなるまで、私は彼女は一度も心の底から笑ったことがなかったのではないかと確信しています。

亡くなる数年前にお会いした時に陽子さんは私にいきなり遠藤周作の『深い河』を出して、「これ読んだことある? ぜひ読んでみて」と言いました。それが元気な彼女に会った最後でした。私にはそれが遺言のように胸に残っています。彼女はその後転落事故で脳挫傷の傷を負い意識不明のまま入院生活を送り亡くなりました。

『深い河』は遠藤周作の作家としての集大成とも言われます。五人の主人公が目指す場所/行き着く先はインドです。キリスト教といういわば一神教の宗教の信徒でもあった作家は、自らの信仰が必ずしも日本人の心性に沿うものではないことを認識していたことがわかります。一神教としてのキリスト教の対極にはインドの宗教世界が存在していてそこには全てを包摂する宗教の心がある‥これが作家の到達点であったのだと思われます。かのノーベル賞作家ヘルマン・ヘッセの確信がおそらくそうであったように。知性も高く読書家の陽子さんが私に「『深い河』読んでみて」と言われたことに、どのような意味が込められていたのだろうか‥未だに「解」に至らない点です。未来を断ち切られたままにその後の人生を生きてきた彼女の世界が私にわかるはずもないのですが‥‥お腹を痛めて生んだたった一人の娘は輪廻転生してインドで生まれ変わって人生を生きているといると信じていたのか、何十年も娘の魂を抱きながらひと時も消えることのなかった悲嘆の中にあった彼女は、果てることなき彼女の懊悩の全てを飲み込んでくれる場としてインドという世界に安心の世界を見い出そうとしていたのか‥‥そのどちらかであったと信じています。

川嶋みどりさん(日本赤十字看護大学名誉教授)は日本の専門職看護の知的体系化や看護教育に力を尽くされてこられた方です。以下は川嶋さんのお話しの要点です(公表されているインタビュー記事の抜粋です)。

「私には二人の息子が居りました。ある日浪人して入学試験が終わった長男が「友達が飲み会に誘ってくれた」とうれしそうに出かけていきました、でもその晩帰ってこなかった‥警察からの電話で彼が駅のホームから転落し試運転の電車にひかれて亡くなったという報告を受けた時、私は泣くというよりも”転げ回って吠えた”ようだと記憶しています。

その後たくさんの人から、温かい言葉やお悔やみの言葉をかけてもらいましたが、当時は全部はねのけてしまったほどでした。あなたたちには、子どもを亡くした親の気持ちはわからないって‥それほど辛かった。なかなか立ち直れなかったけれども長男を思って和歌を読み始めました。それから毎朝長男が好きだったコーヒーを淹れるようになりました。40年以上毎朝写真の前にコーヒーを供えて長男と話をしています。 「時間が解決する」とよく言いますが、時が経てば悲しみの質は変わるけれど、悲しみは消えません。また「同じ悲しみを持った人と交流すればいい」とも言われますが、かえって思い出してしまって辛かった。こうしたらいいよ‥という特効薬はないと思います。看護の仕事を続けてきて常に死と向かい合ってきた自分でさえ、なかなか立ち直れませんでした。どうにか乗り越えられたのは、やっぱり仕事があったからでしょうか。でも乗り越え方もそこにかかる時間も人それぞれです。無理をしないで、自分のペースでいいと思います。あるとき講演で私の話を聞いた方から「お子さんは何人ですか?」と聞かれました。「2人です」と答えたら「じゃあ、よかったですね」と言われました。その方は私を励ますつもりで言ってくれたのだと思いますが、心臓に釘を刺されたように辛かった‥と。

2011年3月の東日本大震災の後に仲間たちと被災地の支援に入りました。被災者の方々から「あなたは、わかっていない」と言われた。大切な人、財産、家を亡くした悲しみが、経験していないあなたにはわからないと。その方々の気持ちが痛いほどわかりました。「私も長男を亡くしたから、わかるわ」と言葉では言わなかったけれど、そういう思いで背中をさすり、黙って話を聞きました。」

「ヨブ記」では記されていないヨブの妻の悲嘆と懊悩は、わが子を喪った知人の小倉陽子さんと川嶋みどりさんの例をもって語る事しかできませんが、若いわが子の死は母親にとって未来が閉じられたことを意味します。だから自死だけを考え続ける日々が続くのです。わが子の死の直後には川嶋さんに限らず泣くというよりも”転げ回って吠えた”‥これが母親の真の姿です。

ヨブの妻もこのような痛哭悲嘆の時があったはずです。それを何故ヨブ及び著者は何も書き記さなかったのか‥未だに「ヨブ記」が私に投げかけている課題です。

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[Ⅺ 336] ヨブ記巡禮 (5) / ヨブの妻よ !    

2025-03-17 08:29:01 | 生涯教育

 

ヨブが体験したであろう人間の「悲嘆(感情)」について続けて考えます。ヨブの妻のことです。

〈第2章〉では再びサタンが神の前に現われたことが記されています。サタンが神に命ぜられたごとくヨブの飼っていた全ての家畜と全てのしもべたち、そして子どもたち全員を殺し、ヨブ夫婦に対する残酷苛烈な一仕事を終えた後のことです。

【 神はサタンに言います‥私が言ったようにヨブは正しく神である私を恐れ悪に遠い人間であることに気づいたであろう。ヨブはそれほど完全な人間であることがわかったであろう、と。サタンは神に答えます‥それでは次に彼の肉体・骨と肉とを撃ってみなさい、彼は必ずあなたをのろうでしょう、と。すると神はサタンにヨブ自身の身体を襲い傷つけることを許すのです。但し命だけは助けよ、と。再び残酷な仕打ちを神はサタンに命じます。今度はヨブ自身の身体の病気でヨブを打ちのめそうとサタンは出かけて行きます。そしてヨブを襲い、足の裏から頭の頂まで全身を”いやな腫物”でおおいました。】

この病気はかつてのハンセン病か梅毒と考えられてきましたが、現代の医学者によれば少し違う病気のようです。ここでは深入りしません。全身をこの嫌な腫物で覆われたヨブはその痒さと不快さに耐えかねて陶器の破片で自分の身体を掻きむしります。この腫物に対する治療の方法もなく、痒さと痛みに耐え瘡蓋(かさぶた)を搔きむしるしか手立てはなかったのです。

【 その姿を見てヨブの妻は彼に告げます‥私たちは子どもたち全員を殺され、全てのしもべも殺され、家畜も全て殺された、無一物になって貧困に苦しむ毎日なのに、追い打ちをかけるようにあなたは全身をいやな腫物におおわれ苦しんでいる、なのにあなたはまだ神に対する忠誠と信仰を守っている、もういい加減にして神をのろって自死しなさい‥と。】

聖書はこのようにあっさりと記してはいますが、私は著者がヨブの妻のことには詳しく触れていないことを奇妙に思ってきました。かつての私の学んだ聖書研究会でもヨブの妻のことについては全くふれることはありませんでした。これも今になって考えると不思議なことです。

ヨブは妻の悲嘆にも深い共感と理解を示すことのできた人間だったでしょう。しかしヨブはその妻に対しては次のように言い突き放します。「あなたの語ることは愚かな女の語るのと同じだ。われわれは神から幸をうけるのだから、災いをも、うけるべきではないか。」(2:10)、と。こう言って妻の言葉には一顧だにしませんでした。神への批難も口にすることはありませんでした。この姿勢や態度が神の誉をうけた「正しい人」特有のものだとしたら‥私には腑に落ちない感情が残ります。

主人公は確かにヨブです。しかしヨブの悲嘆は同時にヨブの妻の悲嘆でもあった筈です。しもべを喪い家畜を喪ったことに伴う経済的損失は重大なものだったけれども、そんなことよりもその子どもたち全員を喪ったときの妻の悲嘆の大きさ深さというものは私たちの想像を超えるものだった筈です。それはひょっとするとヨブ自身の悲嘆の深さと大きさをはるかに超えていたのではないか。「ヨブ記」の著者は彼女のその後についても何も触れてはいませんが、往時も禁止されていた自死を彼女は選んだのではなかったか‥神を呪って‥と私は考えています。自分のお腹を痛めて出生した子どもたち全てを喪うことは、彼女の未来が閉じられた‥と考えていいと思います。子を喪った母親の例えようもない苦悶と絶望感と悲嘆のことです。

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[Ⅺ 335] ヨブ記巡禮 (4) / 見る前に飛べ‥   

2025-03-11 11:04:19 | 生涯教育

私の所属していた聖書研究会では、この個所の焦点「神 - サタン」に関しては、大方の先輩指導者は「聖書にそのように書いてあるのだから間違いはないのよ。その通りに信じればいいのよ。Leap Before You Look‥つまりはね、見る前に飛べばいいのよ。あまり余計な事は考えずにね‥」という考え方が支配的でした。私はそんな時に「それじゃ答えにはならないじゃないですか!」と反論したものです。私は研究会では素直ではない人間としてケムたがられていたようですが、聖書研究会の指導者たちの言はあながち間違いとは言えません、信仰とはそのようなものなのだから。《〈最高善〉としての神を信ずることは反省する意識には不可能である。》(ユング翁p.88)  とまれ「神 - サタン」がヨブに与えた試練はすさまじいものでした。

サタンはヨブの子どもたちがいつものように宴を開いている時に、シバ(※アラビア半島南西端今日のイエメンとも。ソロモン王即位を祝って訪問したシバの女王として知られる)の者たちが牛とろばを奪いしもべたちを殺したのです。続いて神の火が羊としもべたちを焼き滅ぼし、さらにはカルデヤ人(※バビロニア人のこと。チグリス・ユーフラテス河川の流域に形成された広大な地域に住んでいた)がラクダを奪いしもべたちを殺しました。このようにして家畜としもべたちは全滅します。

ところがサタンの仕業はこれにとどまりませんでした。宴を開いていたヨブの愛した子どもたちを大風をもって家を潰し、何と全員を圧死させてしまいます。この惨禍から逃れてきたしもべの報告を聞いたヨブの心はどのようなものであったのか‥全ての家畜を失うことはまだいい、しかし心から愛し育ててきた子供たちの全てを一瞬にして喪った時のヨブ及び妻は、叫び狂いのたうち回るほどの衝撃を受けた筈です。ヨブ記の著者はこう記します。ここはよく知られた箇所です(1:20-22、聖書原文)。

【 このときヨブは起き上がり、上着を裂き、頭をそり、地に伏して拝し、そして言った。「わたしは裸で母の胎を出た。また裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」。すべてこの事においてヨブは罪を犯さず、また神に向かって愚かなことを言わなかった。】

ヨブは上着を裂き頭をそり地に伏して拝しました。彼はここでも神への信仰を篤く守り通したことがわかります。驚嘆すべきヨブの信仰です。上着を裂き頭をそり地に伏して‥というヨブの行為は、悲嘆の表現ではありますが、これは申命記神学での神への忠誠を表わす所作でもあったのです。「そしてわたしは前のように四十日四十夜、主の前にひれ伏し、パンも食べず、水も飲まなかった。」(申命記9:18)、「彼らは荒布を身にまとい、恐れが彼らをおおい、すべての顔には恥があらわれ、すべての頭は髪をそり落す。」(エゼキエル書7:18)、「その日、万軍の神、主は 泣き悲しみ、頭をかぶろにし、荒布をまとうことを命じられたが」(イザヤ書22:12)ここで言う「かぶろ」とは禿(はげ)のことで頭を剃ることを意味します。

この部分でヨブはそのような当時の習俗に忠実であったことが記されますが、ヨブと妻の心の内奥の悲嘆については全く触れていないことが私には不思議に思われるのですが、あえて「ヨブ記」著者はこれを避けたのです。神に重んじられその忠実な信仰に神さえも感服していたとも思案されるヨブの信仰の只ならぬ深みが既に表現されているからです。「わたしは裸で母の胎を出た」以降の表現は主体者の言い表すことのできない悲嘆と苦悶感情に満ちています。

この箇所は聖書の「エレミヤ書」に類似の表現が見られます。私はかつて次のように記しました(Ⅴ263:泣きべそ聖書-23) ‥‥「これは夜もすがらいたく泣き悲しみ、そのほおには涙が流れている。そのすべての愛する者のうちには、これを慰める者はひとりもなく、そのすべての友はこれにそむいて、その敵となった。 」(哀歌1:2) 預言者エレミヤは預言者として召されたのはユダの王ヨシヤの治世エレミヤが二十歳の頃(前627年)でした。やがてエルサレムの陥落(前586年)に伴う南王国ユダの滅亡とバビロン捕囚というイスラエルの民の悲惨を経験します。彼の嘆きはとまらない。かつての華やかな時を思い起こす。「ああ、むかしは、 民の満ちみちていたこの都、国々の民のうちで大いなる者であったこの町、今は寂しいさまで坐し、やもめのようになった。もろもろの町のうちで女王であった者、今は奴隷となった。」(哀歌1:1) エレミヤの書記はユダの捕囚は70年にわたると言うエレミヤの預言を記しました。エレミヤは民から迫害され受け入れられないなかで、エルサレムの滅亡を神の言葉として語り続けました。だがエレミヤも一人の人間。預言者の職にあってなおユダの民の人間としての苦しみと悲しみに対する深い情愛と共感を保ち続けました。エレミヤは奴隷となってバビロンに引かれていくユダの町の女王を目にしました。昔はその女王を取巻いていた人間も今や彼女に近づこうとはせず、彼女の悲しみを慰める者はいない。その女王は孤絶のなかでひとり涙を流している。‥‥

エレミヤの記した並々ならぬ深い悲嘆は私にはよく理解できます。神の命令とは言えわが子イエスの磔刑の十字架のそばで子への涙を流す聖母マリアのような慈悲の心が伝わります。エレミヤが”涙の預言者”と呼ばれてきたことも理解できます。ところが「ヨブ記」著者はこのような表現を使わなかった、ヨブや妻の内奥を探り探索し夥しい言葉を記録するならば、神とその前に立つヨブとの間の緊張感の糸が緩むと考えたからだと思います。クールで冷淡に見えるヨブよ ! 

しかしながらヨブが神に忠誠を誓う悲嘆の儀式をもって簡明に全てを語らせようとしていますが、彼や妻の内奥が特に子どもたち全員の”格別に不条理な死”に遭遇して、心が平穏であったとはとても考えられません。ただそれを「ヨブ記」の著者は記さなかっただけ‥これでは私は得心できないのです。

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[Ⅺ 334] ヨブ記巡禮 ; 今を生きるヨブ (3) / サタンのそそのかし ! 

2025-03-05 08:28:00 | 生涯教育

ところがこのヨブと家族に突如として大きな悲劇が襲います。〈第1章〉(6-12)では突然聖書の記述が転調します。

【 ある日神の子たちのひとりサタンに神は告げます‥あなたはヨブのように完全で正しく神を恐れ悪に遠い生活をしている者を知っているか、彼は私のしもべなのだ‥と。するとサタンは神に答えます‥あなたがヨブを特別にひいきして保護してきたから家畜は増え家族も豊かな生活ができているのですよ、彼の家畜やしもべ、家族などを全てうち殺してみなさい、さすがの彼だってあなたを呪うことでしょうよ‥と。ここでサタンは神をそそのかしてヨブの完全無欠を毀損しようとしています。そして何と神はこのそそのかしに乗じるかのようにサタンに告げます‥ヨブの所有するもの全てをお前の手に委ねる、ただしヨブ自身には手を付けてはならない‥と。】

神は正しく歩む者をこれ以上ないような酷な試練に出会わせてその行く末を見ようとでも考えたのでしょうか。

聖書「詩篇」には、人間には正しい者(義人)はいないとあります。[主は天から人の子らを見おろして、 賢い者、神をたずね求める者が あるかないかを見られた。彼らはみな迷い、みなひとしく腐れた。 善を行う者はない、ひとりもない。](詩篇14:2-3)しかし神から見て実在しないはずの義人がヨブその人であったことになります。そのヨブに対して神はサタンのそそのかしを受け入れて痛哭の試練を与えようとしたのです。

ではこのサタンとはどのような存在なのか‥というより神は何ゆえサタンに対して甘く寛大なのでしょうか? ここはユング翁にも聞くことにします。《サタンに対するこの弱気な寛大さはなぜなのか? 神は人間をまことに弱く悪に染まりやすく愚かに造ったので、神の悪い息子たちに当然いつまでも対抗することはできないが、その人間に悪を執拗に投影するのはどうしてなのか? なぜ悪は根絶やしにされないのか?》(p.105) 神は人間が弱く愚かであっても愛し慰撫してくれる存在ではなかったのでしょうか? その人間に対して神は何ゆえ残酷な仕打ちを与えるのでしょうか? このことは人間が真摯に自らの人生に立ち向かうときに必ず泡のように次から次へと発生する疑問であり不条理さです。悪も根絶やしにされないのですから‥。

神とサタンのやりとりは恐ろしいものです。神は全てのものを創造しあらゆるものを支配下に置き森羅万象神の聖なる思念によらないものはないとすれば、人間に襲いかかる不幸や災禍も全て神がサタンに指示を出して試練に合わせているのだと誰だって考えます。しかしながらこの単純化された「神-サタン」の構図は、往々にして「ヨブ記」を読む者の短絡的な誤解を生みます。あるいは狂信や反キリストの原型ともなっています。その証拠に現今新興宗教の教祖さんたちはこの構図が大好きです。多くの教会関係者はこれらの事を承知しているので「ヨブ記」を素早く通り過ぎ軽視するのです。これはさかしらというものです。人間にとって不幸です。私は「ヨブ記」が正統的に深く解釈されることを願っています。

鑑三翁はこう記します。《人類に下る災禍は果してサタンが神の許可を得て起こす所のものなるかーこれ今日の人の疑問とする処である。彼らは言うすべての疾病は神より刑罰として降りしものにあらず、その他の禍にもそれぞれ天然的または人間的原因あり、これを天において神の定め給いし所と見るは誤れりと。》(p.20) ここで鑑三翁の言う「彼ら」とは、いうまでもなく一般の者のこと、信仰の薄い者のことです。ここは我々人間にとって極めて重要な「鍵」です。これは何も病気に限ったことではありません。わが身に降りかかる全ての災禍(あるいは喜悦)についても、誰でもが抱く疑問です。

ナチスドイツによってアウシュビッツ収容所に収容され生き残った一人のユダヤ人少女が次のように記しています。「神様はアウシュビッツという存在をお許しになったのだ。‥神様は種をまくが、悪魔はその苗を刈り取り、全てを破壊する。この狂気のゲームに勝つのは誰だろうとディタは自問した。」(A.G.イトゥルベ、小原京子訳 : アウシュビッツの図書係. p.225、集英社、2016)  この少女の疑問と確信は人類普遍のテーマです。神と悪魔(サタン)と人間との確執を少女は素直に自問しています。この問いは誰でもが抱く根源的普遍的な問いですね。しかもその「解」には容易に辿りつけません。ただ強く安定した神への信頼をもつ人間だけがその「解」に辿りつくことが可能なのかもしれません。艱難を耐え忍び練達に至り希望を持つにいたる信仰(パウロ)をもつ者の特別の「解」です。

鑑三翁です。1920(大正9)年の講演録なので鑑三翁59歳、円熟の域に達していました。《すべての事は神の旨(みむね)に依りて召かれたる神を愛する者のために悉く働きて益をなすを我らは知れり」(ロマ書八の二十八)とのパウロの言は、すなわちキリスト者の実験である。余自身について言えば、病に罹りし時の如きこれを神より直接に来りしものとは思わず、他の原因が明かに認めらるれど、後に回顧すればその中に深き聖意を認めざるを得ないのである。》(p.21) つまり病気になった直後は他の原因だと考えたが、後に振り返ってみれば聖意(神の御心/恩寵)によるものだと認めざるを得ない、と。鑑三翁の「解」は、その時には地面をのたうち回っても見つからない、しばし「時」を待て、さすれば神は必ず「恩寵grace」という「解」を与えてくれると信じなさい‥という意味だと私は捉えています。

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[Ⅺ 333] ヨブ記巡禮 ; 今を生きるヨブ (2) / 異 邦

2025-02-27 20:19:04 | 生涯教育

私は「ヨブ記」を〈第1章〉から順を追って巡禮の旅に出ることにします。鑑三翁も基本は同様です。精神医学者のユング翁は全く異質にソフィア論(キリスト論/聖母マリア論)を軸としたダイナミックな展開をしていますが。

〈第1章〉は書き出しから少し引用します。ヨブという人間の人となりが記されています。

【 ウヅの地にヨブという名の人がおりました。そのひととなりは完全でかつ正しい生活をし、神を畏怖して日々祈りをかかさず悪には縁のない生活をしていました。彼の家族には妻と男の子七人と女の子三人がおりました。飼っている家畜は羊七千頭、らくだ三千頭、牛五百くびき(千頭)、雌ろばは五百頭で、召使も非常に多く、この人はこの地域東方の人々の中でも豊かで有力者でもありました。】(1:1-3)

ウヅという地はどこにあったのか。辞典によれば、パレスチナの北東アラム人(シリア)の地もしくはパレスチナ南東のエドムの地としています。70人訳聖書の追加文書ではイドマヤ(エドム)とアラビヤの国境地方としているようですが、いずれも確定的なものではないようです。鑑三翁は、アラビア砂漠の北部地方で砂漠中央部の街デュマまたはショフという説をあげ、このように緑野のある地はデュマであろうとしています。

いずれにせよ砂漠地域で耕地を含み牧畜の可能な肥沃で広大な地域だったのでしょう。後に出てくるヨブを慰めに訪ねてくる三人の友人たちもこのような地域に住んでいたと思われます。

そして鑑三翁はヨブの住みし地はパレスチナより見て「純然たる異邦」だったとしています。ここが一つのポイントで、「神を求むる者をユダヤ人に限る要はない、異邦人にても宜(よ)いのである。否異邦人の方がかえって宜いのである」と記します。「神を求むるの心はイスラエルの独占物ではない。人は各個人直接に神を求むるを得、神は各個人の心霊にその姿を顕し給う」とも。

パレスチナという宗教の中心都市部に比べれば、ヨブの住む地は異邦でした。異邦の人間だからユダヤ教以外の神への信仰(※例えば往時この地域に影響を及ぼしていたエジプトの多神教や古くからのフェニキアやアッシリアの神々への信仰)に依拠していたかというと、少なくともヨブについては、捕囚期後の宗教改革を経て往時の新しい宗教としてのユダヤ教の信徒として信仰に篤く人間としても信仰中心の正しい生活をしていました。神を恐れ悪の道に立ち入ることのない人間であったと記されています。

ここで言う”正しい人間”とは、「申命記」でモーセが主から告げられイスラエルの人々の前に示した律法を忠実に守る人間のことです。すなわち神を崇め安息日を守り父母を敬い殺さず姦淫せず盗まず偽証せず隣人の妻をむさぼらず隣人のものを欲しがらず‥という人間です。

ヨブの男の子どもたちはめいめいが各々”自分の日”(※当時一人ひとりに該当する宗教上の記念日や誕生日のようなものか不明)に他のきょうだいを招いて宴会をするのを恒例としていました。おそらくきょうだい水入らずの楽しい宴だったと思われます。ヨブは愛する十人の子どもたちが何時罪を犯すやも知れないので、その日のたびに燔祭(※焼いた生贄)を神に捧げていました。祈りの中で家族の安寧と無事を祈りつつ、彼ら子どもたちは何時どのような罪を犯すやもしれず、神への祈りの中で罪を許されるようにと祈っていたのです。

ヨブ一家には、家畜は羊七千頭、らくだ三千頭、牛五百くびき(千頭)、雌ろばは五百頭もおり、おそらくは当時のウヅ地方でも最も豊かな畜産家であり、雇人も非常に多く、家族は何一つ経済的に不自由のない生活をしていたと思われます。紀元前5世紀頃のイスラエルは地中海と紅海を結ぶ重要な交易路の一部であり、特に穀物、食肉といった食料、香料、香油、金属、陶器などの商品が取引されていました。したがって地域内での交易も活発で、周辺の国々との貿易も行われていたようです。そして往時のウヅ地方との間でもヨブの営む畜産業は、食肉、乳製品、農耕用、運搬用とフェニキア商人の活動していた時代から一大流通システムが活発に稼働していたことが推測できます。私が貧相な想像力で想像するよりはるかにヨブの時代の生活は豊かなものだったと思われます。

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