「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

室津 船泊 Long Good-bye 2024・11・16

2024-11-16 05:55:00 | Weblog

 

 今日の「 お気に入り 」は 、司馬遼太郎さん の

 「 街道をゆく 9 」の「 播州揖保川・室津みち 」。

  今から50年ほど前の1976年の「週刊朝日」に

 連載されたもの 。備忘のため 、「 播州室津 」に

 ついて書かれた数節抜粋して書き写す 。

  引用はじめ 。

 「 播州平野でもっとも海近くをとおっている道路
  は 、国道250号である 。そこまで出ても途
  中の山がさえぎって 、まだ海が見えるに至らな
  い 。ただ海風のにおいはする 。
   道路上で 、一軒みつけた 。いかにも付近の農
  家が田ンボを潰してやっているといったふうの泥
  くさいドライブ・インで 、入るとあざとい色調
  のミュージック・ボックスが置かれている 。元
  青線のネオンのようなこの種の音楽箱のデザイン
  というのはいまの日本のどの層の感覚に迎合して
  いるのかわからないが 、ともかくもこれが置か
  れている店に入る場合には 、多くの期待は禁物
  である 。
   このあたりは 、姫路市の西郊になる 。姫路市
  というのは 、私の手もとの昭和初年の資料では
  人口は六万であった 。また戦争で市街のほとん
  どが焼けてしまったし 、敗戦の直後は師団など
  が無くなったせいもあって 、人口も五万ほどに
  まで落ちた 。その後 、工業設備が集中してい
  まは四 、五十万だというから 、短期間にとほ
  うもなく膨張した 。このために近郊の土地が騰
  貴して 、かつてのどかだった田園が 、農地な
  のか 、ごみ捨て場なのか 、無秩序な宅地なの
  か 、つかみがたい景色になっている 。
  『 ほんのさっき見た龍野の町が 、もう夢の中
  の町のように思えますな
   と編集部のHさんがいった 。」

  (⌒∇⌒)  。。

 「  陽が瀬戸内海に傾くころに 、室津に着いた
   七曲からの道路は 、嫦娥山(じょうがざん)の
  崖の中腹を通っている 。道路上から 、室津の
  入江の景観が見おろせる 。宿は 、その道路上
  に 、崖に背をもたせかけるようにして建ってい
  る 。
   宿は新築の建物で 、かつて室津の物寂びた風
  情を愛した文人墨客が見れば 、あるいは歎く
  かもしれない 。
  『 室津では 、宿は 、ここぐらいしかないん
  です 』
   と 、この宿を予約してくれた編集部のHさん
  自身 、無意味な自動ドアの前で 、閉口したよ
  うに笑った 。ほこりっぽいコンクリート 、喫
  茶店によく置かれているような観葉植物 、装飾
  として置かれている漁師舟など 、何だか変に不
  統一で気分が落ちつきにくかったが 、部屋に入
  ると 、この宿に感謝する気持になった
   アルミ窓枠のガラスいっぱいに室津港が見おろ
  せるし 、地図ではよほど沖合かと思っていた中
  ノ唐荷島と沖ノ唐荷島が 、ちかぢかと見えるの
  である 。
  『 歩きますか 』
   歩行能力に卓越している須田画伯は 、歩くなら
  自分が案内してやるという勢いを示してくれたが 、
  むしろ今宵は 、この窓から日没で翳(かげ)の移ろ
  ってゆく入江を眺めているほうがよさそうに思え
  た 。」

 「 なるほどこの地勢を見ていると 、奈良朝以来 、
  幕末まで名津(めいしん)といわれてきたことが
  うなずける思いがする 。
   湾口を西方の沖にむかってひらいている 。その
  小さな口を囲んでいる三方の陸地はことごとく山
  壁で 、風浪をふせいでいる 。しかも山脚がいき
  なり海に落ちているために底までは深そうである 。
  湾の奥のわずかな平坦地にいらかがひしめき 、江
  戸期には港市としてのにぎわいを『 室津千軒
  などと誇張された 。上陸地のその平坦地に接して
  いるあたりの海でさえ水はよほどの深さであると
  いうから 、五百石 、千石の船が 、湾のもっとも
  奥に投錨することができ 、荷の揚げおろしに便利
  であったにちがいない
   湾は 、意外に小さい 。
   湾の小ささが 、室津の風情(ふぜい)をいっそう
  濃くしている 。古くは遣唐使船の舟泊(ふなどま
  り)になり 、平安末期には西海へ落ちてゆく平家
  の船団の一部を休ませ 、室町期には京都商人を
  のせた遣明船がここで風を待ち 、江戸期にはさ
  らに殷賑をきわめ 、参勤交代の西国大名の船の
  寄港地になったというが 、この船泊の小ささは
  どうであろう 。当時の船というのは 、外洋船
  でもこんにちの船のイメージからいえばよほど
  小さかったにちがいない 。その小ささには 、
  三方の山の翠巒(すいらん)が海にくろぐろと映
  りはえている程度の小ぶりな水面がちょうど間
  尺(ましゃく)に適(あ)っていたのかと思える 。
  科学的な推量ではない 。美的イメージとして
  である 。」

   引用おわり 。

  作家は 、五十年前の姫路市西郊を例に挙げて 、日本の都市

 近郊の身も蓋もない無残な姿を描き歎いているが 、その状

 況は 、おそらく 、五十年後のこんにちも変わりはないであ

 ろう 。いや 、いっそう劣化しいるに違いない 。

 

 

 

 

 

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