「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

いちもんふち Long Good-bye 2024・11・24

2024-11-24 06:22:00 | Weblog

 

  今日の「 お気に入り 」は 、司馬遼太郎さん の

  「 街道をゆく 9 」の「 播州揖保川・室津みち 」。

   今から50年ほど前の1976年の「週刊朝日」に

  連載されたもの 。 今日は 、「 一文不知 ( いちもん

  ふち ) 」と題された小文の 後半の数節を書き写す 。

   法然上人が登場する話の舞台は 、 引き続き 播州

  室津 である 。

   引用はじめ 。

  「 ふたたび軒と軒とにはさまれたこの町特有の
   狭い坂をのぼり 、このあたりの地形ではその
   頂上にあるかのような浄土宗・浄運寺の石段を
   登った 。
    山門も小ぶりでよく 、境内も建物の配置が狭
   さとよく適(あ)っている 。
    老婦人が 、まだ口もきけない年端(としは)
   のお孫さんをつかまえて 、懇々と説諭してい
   る 。幼児は 、男の児である 。石畳のそばの
   わずかな土の上の草を抜いてしまったらしい 。
   『 ただの草ならね 、抜いてもいいの 。この
   草はね 、だめなの 。そのわけはね 、おじい
   さまがね 、わざわざ植えられて可愛がってお
   られるから抜いてはだめなの 』
    坊やは 、おむつを締めて がにまた で立って
   いる 。どの程度理解できているのかわからな
   いが 、ともかくもお祖母さんの説諭をおとな
   しく聞いていて 、そのあたりがいかにも聞法
   (もんぽう)第一の浄土念仏の寺らしくていい 。」

  「『 法然上人霊場
    と 、山門のそばの石碑に刻まれていたが 、
   法然が晩年 、流されて四国へ送られるときに 、
   船がこの室津に寄った 。そのときこの室津で
   『 友君(ともぎみ) 』とよばれていた評判の
   遊女が法然を慕って帰依したことで 、この寺
   は有名になった
   この寺はその後の開創のようだが 、この場所
   に友君が住んでいたのか 、それともここが番
   所か何かで罪人としての法然の宿所になって
   いたのか 、そのあたりはよくわからない 。」

  「 法然の配流は 、気の毒というほかない 。
    その配流は 、後鳥羽上皇のごく私的な感情
   に発している 。上皇が寵愛していたらしい二
   人の女官が 、法然の弟子のうちの公家出身の
   二人の僧と恋愛関係をもったということで 、
   その一件とは何の関係もない法然とその弟子
   たちを遠国に流し 、教団を事実上壊滅させた 。
    法然という人は日本最初の民衆的教団の開創
   者というにはおよそふさわしくないほどに円
   満な人柄で 、どうもうまれつきであったらし
   い 。争いを好まず 、ひたすら既成の権威や
   俗世の権力に対して衝突を避け 、自分の思想
   と信仰を手固く守ってきた 。が 、結局は七
   十五歳という晩年になってくだらないことで
   大弾圧をうけ 、配流の身になってしまったの
   だが 、しかし一面 、浄土教の発展という面
   ではよかったかもしれない 。このとき法然の
   弟子の一人として越後へ配流された親鸞が 、
   その作の『 教行信証(きょうぎょうしんしょ
   う) 』のなかで『 主上・臣下 、法ニ背(そむ)
    キ 、義ヲ違ヘ忿(いかり)ヲ成シ 、怨ヲ結ブ
   とはげしく地上の支配者の気まぐれを罵(のの
   し)り 、その本質を見ぬいたというふうな気
   分を持ったのも 、この弾圧の経験による 。」

  「 流人の法然を乗せた船が 、どのようなもの
   であったか 、せいぜい絵巻物などで想像する
   ほかないが 、漁舟よりやや大きい程度のもの
   であったであろう 。
    法然の生涯は 、永い 。『 自分は木曾殿が
   乱入した日以外 、聖教を読むことをやめた
   ことがない 』と言ったことがあるが 、かれ
   の流罪はその日から二十四年後のことである 。
   かれを檻送する舟が 、平家の誇るべき遺構
   である福原港の防波堤『 経ケ島 』に寄港し
   たことは 、そのあたりの漁師多数が経ケ島
   まで舟を漕ぎよせて法然から聞法(もんぽう)
   しようとした事でも 、想像できる 。
   『 上人 、室の泊(とまり)につき給ふ
    というのは『 勅修御伝 』の文章である 。
   このとき遊女が推参(すいさん)した 。友君
   の名で伝わる遊女であろう 。彼女は 、言う 、
   この罪業重き身 、いかにしてか後世(のちの
   よ)助かり候べき 、と訴え 、法然から阿弥
   陀如来の本願と念仏のすすめを聞いた 。
    室津の浄運寺はその古蹟とされる 。
   『 そのあと寺ができたといわれていますか
   ら 、七百年以上は経っているでしょう 』
    と 、境内で孫と遊んでいた老婦人がいっ
   た 。境内のはしへゆくと 、そこは崖にな
   っている 。崖の下は海かと思ったのだが 、
   のぞくと学校のグラウンドになっていた 。
   『 もとは 、海だったんです 』
   老婦人は 、埋め立てられる前 、崖下まで
   きていた潮の色がいかによかったかという
   ことを話した 。
    境内の一隅に 、姿のいい観音堂がある 。
   十一面観音がまつられているという 。法
   然は 、念仏して阿弥陀如来の本願を頼み
   参らせることのみを説いた人だが 、当時
   の権威だった天台や南都の諸仏をまつる
   ことについても 、親鸞のようには拒否的
   でなかった 。このためにこの寺にも十一
   面観音のお堂があるわけで 、まことに
   風というのは宗祖の性格の反映といって
   いい
    眺めていると 、お堂の観音扉がひらいて 、
   暗い堂内から綿入れのきものを着た老人が
   出てきた 。閼伽(あか)を取りかえていた
   らしいことは 、古い花や水桶をたずさえ
   ていることでもわかる 。在家の信者かと
   思って老婦人にきくと 、彼女は 、この
   寺の住持でございます 、といった 。つ
   まりは彼女のご主人で 、このお孫さんの
   祖父にあたる 。坊やが抜いてしまった草
   花を植えたひとである 。
    法然の『 一枚起請文 』に 、
  
    ・・・念仏を信ゼン人ハ 、たとひ一代
    ノ法ヲ能々(よくよく)学(がく)ストモ 、
    一文不知(いちもんふち)ノ愚とんの身ニ
    ナシテ 、尼入道(あまにふだう)ノ無(む)
    ちノともがらニ同(おなじう)しテ 、ちし
    やノふるまひヲせずして 、只(ただ)一(い
    つ)かうに念仏すべし

    とあるが 、この住持や寺族のふんいきに
   は 、いかにも法然の一文不知の念仏が滲み
   入っているように思えて 、海風のようにす
   がすがしかった 。

    終始無言のまま境内にたたずんでいた安田
   章生(やすだあやお)氏もあるいはそう思わ
   れたらしく 、新着の『 短歌 』六月号をな
   にげなくひらいてみると 、

    海のこゑ聴くにこころの澄みゆきぬ
    一文不知の身ともなりてむ

    という歌があった 。あわてて名前を見ると 、
   やはり氏の出詠だった 。」

   引用おわり

  。。(⌒∇⌒) 。。

   因みに 、筆者の父親の実家の宗旨は 、浄土宗であったと

  聞く 。三代前あたりから 、大阪市天王寺区生玉町にある

  菩提寺という浄土宗の寺の檀家だったようで 、父方の祖

  父母の墓はその寺にあった 。一方 、筆者の母親の実家の

  宗旨は 、浄土真宗で 、母方の祖父母の墓は 、京都市東山

  区清水3丁目にある興正寺別院にある 。観光客で賑わう

  清水寺近くの産寧坂 ( 三年坂 ) にある割には 、静かで落

  ち着いた雰囲気の墓所である 。

   宗旨に関して 、商都 大阪では 、概して考え方が大らか

  だったようで 、父方の祖父は 、真言宗の高野山金剛峰寺

  の参道に置く 灯籠 をひとつ寄進した 、と聞かされた

  がある 。また 、母親に連れられて 、大阪市天王寺区に

  る一心寺という浄土宗の大きなお寺にお詣りしたかと思う

  と 、ご利益があるとか 霊験あらたかであるとか 聞けば 、

  異なる宗旨の神社仏閣にも 、母は 、詣でた 。たとえば 、

  真言宗の 、兵庫県宝塚にある 、清荒神 にお詣りする

  といった按配で 、そういった往時の記憶が 、者には

  ある 。

  。。 (⌒∇⌒) 。。

 

  

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