今日の「 お気に入り 」は 、司馬遼太郎さん の
「 街道をゆく 9 」の「 播州揖保川・室津みち 」。
今から50年ほど前の1976年の「週刊朝日」に
連載されたもの 。 今日は 、「 一文不知 ( いちもん
ふち ) 」と題された小文の 後半の数節を書き写す 。
法然上人が登場する話の舞台は 、 引き続き 播州
室津 である 。
引用はじめ 。
「 ふたたび軒と軒とにはさまれたこの町特有の
狭い坂をのぼり 、このあたりの地形ではその
頂上にあるかのような浄土宗・浄運寺の石段を
登った 。
山門も小ぶりでよく 、境内も建物の配置が狭
さとよく適(あ)っている 。
老婦人が 、まだ口もきけない年端(としは)
のお孫さんをつかまえて 、懇々と説諭してい
る 。幼児は 、男の児である 。石畳のそばの
わずかな土の上の草を抜いてしまったらしい 。
『 ただの草ならね 、抜いてもいいの 。この
草はね 、だめなの 。そのわけはね 、おじい
さまがね 、わざわざ植えられて可愛がってお
られるから抜いてはだめなの 』
坊やは 、おむつを締めて がにまた で立って
いる 。どの程度理解できているのかわからな
いが 、ともかくもお祖母さんの説諭をおとな
しく聞いていて 、そのあたりがいかにも聞法
(もんぽう)第一の浄土念仏の寺らしくていい 。」
「『 法然上人霊場 』
と 、山門のそばの石碑に刻まれていたが 、
法然が晩年 、流されて四国へ送られるときに 、
船がこの室津に寄った 。そのときこの室津で
『 友君(ともぎみ) 』とよばれていた評判の
遊女が法然を慕って帰依したことで 、この寺
は有名になった 。
この寺はその後の開創のようだが 、この場所
に友君が住んでいたのか 、それともここが番
所か何かで罪人としての法然の宿所になって
いたのか 、そのあたりはよくわからない 。」
「 法然の配流は 、気の毒というほかない 。
その配流は 、後鳥羽上皇のごく私的な感情
に発している 。上皇が寵愛していたらしい二
人の女官が 、法然の弟子のうちの公家出身の
二人の僧と恋愛関係をもったということで 、
その一件とは何の関係もない法然とその弟子
たちを遠国に流し 、教団を事実上壊滅させた 。
法然という人は日本最初の民衆的教団の開創
者というにはおよそふさわしくないほどに円
満な人柄で 、どうもうまれつきであったらし
い 。争いを好まず 、ひたすら既成の権威や
俗世の権力に対して衝突を避け 、自分の思想
と信仰を手固く守ってきた 。が 、結局は七
十五歳という晩年になってくだらないことで
大弾圧をうけ 、配流の身になってしまったの
だが 、しかし一面 、浄土教の発展という面
ではよかったかもしれない 。このとき法然の
弟子の一人として越後へ配流された親鸞が 、
その作の『 教行信証(きょうぎょうしんしょ
う) 』のなかで『 主上・臣下 、法ニ背(そむ)
キ 、義ヲ違ヘ忿(いかり)ヲ成シ 、怨ヲ結ブ 』
とはげしく地上の支配者の気まぐれを罵(のの
し)り 、その本質を見ぬいたというふうな気
分を持ったのも 、この弾圧の経験による 。」
「 流人の法然を乗せた船が 、どのようなもの
であったか 、せいぜい絵巻物などで想像する
ほかないが 、漁舟よりやや大きい程度のもの
であったであろう 。
法然の生涯は 、永い 。『 自分は木曾殿が
乱入した日以外 、聖教を読むことをやめた
ことがない 』と言ったことがあるが 、かれ
の流罪はその日から二十四年後のことである 。
かれを檻送する舟が 、平家の誇るべき遺構
である福原港の防波堤『 経ケ島 』に寄港し
たことは 、そのあたりの漁師多数が経ケ島
まで舟を漕ぎよせて法然から聞法(もんぽう)
しようとした事でも 、想像できる 。
『 上人 、室の泊(とまり)につき給ふ 』
というのは『 勅修御伝 』の文章である 。
このとき遊女が推参(すいさん)した 。友君
の名で伝わる遊女であろう 。彼女は 、言う 、
この罪業重き身 、いかにしてか後世(のちの
よ)助かり候べき 、と訴え 、法然から阿弥
陀如来の本願と念仏のすすめを聞いた 。
室津の浄運寺はその古蹟とされる 。
『 そのあと寺ができたといわれていますか
ら 、七百年以上は経っているでしょう 』
と 、境内で孫と遊んでいた老婦人がいっ
た 。境内のはしへゆくと 、そこは崖にな
っている 。崖の下は海かと思ったのだが 、
のぞくと学校のグラウンドになっていた 。
『 もとは 、海だったんです 』
老婦人は 、埋め立てられる前 、崖下まで
きていた潮の色がいかによかったかという
ことを話した 。
境内の一隅に 、姿のいい観音堂がある 。
十一面観音がまつられているという 。法
然は 、念仏して阿弥陀如来の本願を頼み
参らせることのみを説いた人だが 、当時
の権威だった天台や南都の諸仏をまつる
ことについても 、親鸞のようには拒否的
でなかった 。このためにこの寺にも十一
面観音のお堂があるわけで 、まことに宗
風というのは宗祖の性格の反映といって
いい 。
眺めていると 、お堂の観音扉がひらいて 、
暗い堂内から綿入れのきものを着た老人が
出てきた 。閼伽(あか)を取りかえていた
らしいことは 、古い花や水桶をたずさえ
ていることでもわかる 。在家の信者かと
思って老婦人にきくと 、彼女は 、この
寺の住持でございます 、といった 。つ
まりは彼女のご主人で 、このお孫さんの
祖父にあたる 。坊やが抜いてしまった草
花を植えたひとである 。
法然の『 一枚起請文 』に 、
・・・念仏を信ゼン人ハ 、たとひ一代
ノ法ヲ能々(よくよく)学(がく)ストモ 、
一文不知(いちもんふち)ノ愚とんの身ニ
ナシテ 、尼入道(あまにふだう)ノ無(む)
ちノともがらニ同(おなじう)しテ 、ちし
やノふるまひヲせずして 、只(ただ)一(い
つ)かうに念仏すべし 。
とあるが 、この住持や寺族のふんいきに
は 、いかにも法然の一文不知の念仏が滲み
入っているように思えて 、海風のようにす
がすがしかった 。
終始無言のまま境内にたたずんでいた安田
章生(やすだあやお)氏もあるいはそう思わ
れたらしく 、新着の『 短歌 』六月号をな
にげなくひらいてみると 、
海のこゑ聴くにこころの澄みゆきぬ
一文不知の身ともなりてむ
という歌があった 。あわてて名前を見ると 、
やはり氏の出詠だった 。」
引用おわり
。。(⌒∇⌒) 。。
因みに 、筆者の父親の実家の宗旨は 、浄土宗であったと
聞く 。三代前あたりから 、大阪市天王寺区生玉町にある
菩提寺という浄土宗の寺の檀家だったようで 、父方の祖
父母の墓はその寺にあった 。一方 、筆者の母親の実家の
宗旨は 、浄土真宗で 、母方の祖父母の墓は 、京都市東山
区清水3丁目にある興正寺別院にある 。観光客で賑わう
清水寺近くの産寧坂 ( 三年坂 ) にある割には 、静かで落
ち着いた雰囲気の墓所である 。
宗旨に関して 、商都 大阪では 、概して考え方が大らか
だったようで 、父方の祖父は 、真言宗の高野山金剛峰寺
の参道に置く 灯籠 をひとつ寄進した 、と聞かされたこと
がある 。また 、母親に連れられて 、大阪市天王寺区にあ
る一心寺という浄土宗の大きなお寺にお詣りしたかと思う
と 、ご利益があるとか 霊験あらたかであるとか 聞けば 、
異なる宗旨の神社仏閣にも 、母は 、詣でた 。たとえば 、
真言宗の 、兵庫県宝塚市にある 、清荒神 にお詣りする
といった按配で 、そういった往時の記憶が 、筆者には
ある 。
。。 (⌒∇⌒) 。。
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