「今日の小さなお気に入り」 - My favourite little things

古今の書物から、心に適う言葉、文章を読み拾い、手帳代わりに、このページに書き写す。出る本は多いが、再読したいものは少い。

小作争議 Long Good-bye 2024・11・06

2024-11-06 06:11:00 | Weblog

 

 

  今日の「 お気に入り 」は  、司馬遼太郎さん の

 「 街道をゆく 9 」の「 潟のみち 」。

  今から50年ほど前の1976年の「週刊朝日」に

 連載されたもの 。

 備忘のため 、数節を抜粋して書き写す 。

  引用はじめ 。

 新潟市の東方にある豊栄(とよさか)市は 、国道ぞ
  いだけが 、とりとめもなく都市化している
   国道から 、木崎という旧村へゆくべく枝道に入る
  と 、昔ながらの田園がひろがりはじめる 。昨夜降
  った雨があちこちに溜まって 、日射しをはねかえ
  したり 、樹影をうつしたりしている 。村内に入る
  と 、道は水をたっぷりふくんでいて 、スポンジを
  踏むような感がある 。
   木崎村は亀田郷とおなじ低湿地だが 、亀田郷のよ
  うにいかにも超現代的共同体というような基盤や自
  治的規制をもたないために 、どこにでもある都市
  近郊農村のように 、集落としての景色も秩序美も
  もっていない 。」

  (⌒∇⌒) 。。

 「 木崎村というのは 、大正末年 、ここに大規模な
  小作争議がおこったことで有名である 。結局は法
  廷でやぶれたが 、争議期間が長かったことと 、争
  議が整然と運営されたこと 、当時としてはめずら
  しく県外から有力な応援者が駆けつけたことなど
  で 、大正期に頻発した小作争議のなかでは一つの
  典型として記憶されている 。」

 「 当時の幹部で 、今なお元気な人がいるという 。」

 「 明治二十六年うまれの池田徳三郎氏だという 。」

 「  池田翁は 、
  『 木崎村は 、江戸時代はみな自作農だった 。明治
  になってから小作農になった 。』
   私のほうをむかず 、在来 、話し馴れている村の人
  のほうをむいていった 。この人の叙述の仕方はじつ
  に明晰で 、木崎村をはっきりと客観的に対象化して
  とらえている 。『 私は 』と 、途中で翁がいうの
  に 、
  『 はずかしいことだが 、尋常 ( 尋常小学校のこと )
  も 、六年上(あが)ればよかったのに 、四年しか行
  がねえ 』
   だからうまく言えねえが 、という 。しかし 、叙述
  の的確さは 、なまじいな研究者から物をきくよりも
  みごとなものがある 。
  『 宝暦年間( ほぼ一七五〇年代 )から
   と 、簡潔に村史をいう 。宝暦年間というのは江戸
  期でももっとも充実した時期で 、『 仮名手本忠臣
  蔵 』の作者竹田出雲の晩年であり 、蘭学者杉田玄
  白 、思想家の三浦梅園 、安藤昌益 、医家の山脇東
  洋などの活動期でもあり 、また大岡裁判の大岡越前
  守が最晩年をむかえたころでもある 。そのころから
  この湛水地にひとびとがやってきては 、土を投げこ
  んで稲を植えた 。
  『 ・・・ やってきた者たちが 、芦のはえたドブハ
  ラを耕して自分の田を自分でつくってきた 』
   その作業を子や孫が継ぎ 、江戸期いっぱいそれを
  繰りかえして明治を迎えた 。」

  明治維新直後 、太政官の財政基礎は 、徳川幕府
  と同様 、米穀である 。維新で太政官は徳川家の直
  轄領を没収したから 、ほぼ六百万石から八百万石
  ほどの所帯であったであろう 。
   維新後 、太政官の内部で 、米が財政の基礎をな
  していることに疑問をもつむきが多かった 。
  『 欧米は 、国家が来期にやるべき仕事を 、その
  前年において予算として組んでおく 。ところが
  日本ではそれができない 。というのは 、旧幕同
  様 、米が貨幣の代りになっているからである 。
  米というのは豊凶さまざまで 、来年の穫れ高の予
  想ができないから 、従って米を基礎にしていては
  予算が組みあがらない 。よろしく金(かね) を基礎
  とすべきであり 、在来 、百姓に米で租税を納めさ
  せるべきである 』
   明治五年 、三十歳足らずで地租改正局長になった
  陸奥宗光が 、その職につく前 、大意右のようなこ
  とを建白している 。武士の俸給が米で支払われる
  ことに馴れていたひとびとにとっては 、この程度
  の建白でも 、驚天動地のことであったであろう 。
   が 、金納制というのは 、農民にとってたまった
  ものではなかった
   農民の暮らしというのは 、弥生式稲作が入って
  以来 、商品経済とはあまりかかわりなくつづいて
  きて 、現金要らずの自給自足のままやってきてい
  る 。『 米もまた商品であり 、農民は商品生産者
  である 』というヨーロッパ風の考えを持ちこまれ
  ても 、現実の農民は 、上代以来 、現金の顔など
  ほとんど見ることなく暮してきたし 、たいていの
  自作農は 、米を金に換えうる力などもっていなか
  った 。」

 「 どうすれば自作農たちが金納しうるかということ
  については 、政府にその思想も施策も指導能力も
  なにもなく 、ただ明治六年七月に『 地租改正条
  例 』がいきなりといっていい印象で施行されただ
  けである 。
   これが高率であったこと 、各地の実情にそぐわ
  なかったことなどもふくめて 、明治初年 、各地
  に大規模な農民一揆が頻発するにいたるのだが 、
  木崎村はこのときには一揆をおこしていない 。
   池田翁の話ではただ仰天し 、とても納める金な
  どない 、ということで 、金納の能力をもつ大地
  主をさがして 、
  『 安い金で買ってもらったんです 。地主に金納
  してもらい 、自分は先祖代々耕してきた田を依然
  として耕し 、以前 、藩に米を納めたように 、地
  主に物納してゆく 。つまり 、小作になったわけ
  です
   と 、池田翁はいう 。全国的にその傾向があり 、
  これによってどの府県でも圧倒的な大地主という
  のはこの時期にできあがるのだが 、その間のこと
  を 、池田翁のように父親からなまに聞いてきた人
  が肉声で言うのを聴くのは 、ちょっと凄味があっ
  た 。」

 「 この消息を 、池田翁は 、やや諧謔をこめて 、
  『 地主だって 、小地主はそう田地を持ちこまれ
  ても 、金納の能力はない 。そこをなんとかお願
  いします 、といって 、酒や赤飯を持って行って
  ただで引きとってもらった例も多いんです 。そう
  いうぐあいにしてみな小作になった 』
   やがて小地主も倒れてゆき 、大地主だけは膨れ 、
  明治政府は大地主から得た金で財政をまかなって
  ゆくのだが 、大正期になると 、小作農は暮らし
  の苦しさと政治意識の自覚が高まって 、各地に
  小作争議が頻発する 。」

 「『 争議のきっかけは 、はっきりしていないが 、
  大正十一年にスガイ・カイテン翁がやってきて 、
  各部落に小作組合ができた 』
   以後 、話の中でしばしば 、スガイ・カイテン
  ( 須貝快天 )翁という名が出たが 、池田翁はこ
  の名前を発音するたびに微妙な懐かしさを籠めた 。
  川瀬新蔵著の『 木崎村農民運動史 』では 、カ
  イテン翁については 、『 北越農民運動史のリー
  ダー 』とあるのみでこの名前は一ヵ所しか出て
  いないが 、池田翁はカイテン翁がおそらく好き
  だったにちがいなく 、勢い 、その生い立ちに
  まで触れはじめた 。( 後 略 )」

 「 池田翁は 、話術の名手といっていい 。話が外
  (そ)れたりもどったりしつつも しん が通って
  いる 。話が外れるのも当時の人情を語るためで 、 
  話全体が 、絵でいえば明治の錦絵の描法のよう
  でもあった 。」

 「 この争議のヤマは 、裁判だった 。
   大正十二年五月 、地主の真島家が小作人十二人
  に対し 、小作料未払いを理由にその請求のための
  訴訟を新発田区裁判所に提起した 。つづいて同十
  三年三月 、同家は小作人六十余人に対し 、小作
  米未納を理由に仮処分の申請をし 、新発田区裁判
  所によって受理された 。
   このことについては 、川瀬新蔵氏の『 木崎村農
  民運動史 』には 、

  父祖伝来愛着の土地に『 小作人立入る可(べか)
  らず 』の禁札が 、雪解の水を湛えて氷雨煙る
  中に鷗(かもめ)の如く点々として樹てられた 。

   とある 。鷗のごとくとあるのは禁札に白ペンキ
  が塗られていたためらしく 、こういう叙景は 、
  川瀬氏という著者自身が当事者の一人だったから
  こそ書けたのであろう 。」

 「 裁判は 、小作人側の弁護人として片山哲氏がひ
  きうけた 。後年 、昭和二十二年六月に成立した
  社会党内閣の総理大臣である
  『 新発田の裁判所まで何度も足を運んで 、傍聴
  に行った 。あのころの傍聴は羽織袴でないといか
  んという規則があったが 、私は羽織も持たず 、
  袴も持っていなかったので 、そのまま行った 。』
   と 、池田翁はいう 。
   裁判は相当ながびき 、その間 、全国の無産運動
  者側の応援もあり 、争議団の大会 、講演会 、就
  学児童五百余人の同盟休校 、農民学校の開設など
  もあって 、よほど世間の耳目をあつめたらしい 。
  東京の新聞はほぼ争議団に同情的で 、国権主義傾
  向のつよい『 国民新聞 』でさえ 、大正十五年八
  月十五日付の社説で 、『 元来 、土地は天賜のも
  の 』という基本論を説いている 。

    元来土地は天賜のもの 、之を一国の法制を以つて
    私人の所有に委ねる所以のものは 、土地の能力を
    国家社会のため十分に発揮せしめるに出づる 。国
    は土地を私に有用に利用すべく信託するのである 。
    これ以外には土地私有の合理的根拠はない筈であ
    る 。所有は後であって 、地力発揮が先きである 。
    しかるに土地の法的所有そのものを至上に尊しと
    するは 、社会生活の理想に反する 。

   土地私有と私有にともなう行為についての無制限
  にちかい現実はいまも変ることがなく 、この社説
  はこんにちの新聞に掲げられても 、すこしの違和
  感もない

   木崎村の小作問題の裁判は 、女学生まで団体で
  傍聴にきたらしい 。
   当時 、田舎では女学生の姿そのものがめずらし
  い時代で 、『 何もかも忘れっしもうた 』と池田
  翁は言いつつも 、そのことだけはよくおぼえてい
  る 。
  『 あるとき 、傍聴人だったか 、静かな法廷で大
  きな屁をひった者がある 。それでもっておおぜい
  の女学生が笑いだして笑いがとまらず 、法廷もな
  にも 、どうにもならなかった 』
   と 、追想の風景を 、笑わずにいった 。

   裁判は 、結局 、小作人側の負けになった
   が 、八十翁の記憶にはそのことがない 。
  『 忘れっしもうた 。あンだけ新発田まで足を運ん
  だのだが 』
   と言い 、このときだけは風の中で口をあけて笑っ
  た 。」 

  引用おわり 。

  ながながと引用してしまったが 、

  この文章が書かれてから50近く経った現代日本の

 土地私有と私有にともなう行為についての無制限に

 ちかい現実はいまも変ることがないどころか 、混迷

 の度を深めているように思える

 

 

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