亀戸3丁目の普門院の前にいた人、散策の下見だそうです。
「見所いっぱいですよ」通りがかりの私は、思わず口を出しました。
「お墓そのものじゃあないですよ、これは。この寺の墓地にあるという案内です」
「お墓はこちらです。この書体は、中村不折ですね」
「山門に戻って、右手の茂みの中にある大島伯鶴の碑を見てください」
講釈師2代目大島伯鶴は、昭和10年代には、6代目一龍斎貞山と人気を2分し、NHKラジオでは、正月は伯鶴の「愛宕山」(寛永の三馬術)、暮れの14日は貞山の「義士の討ち入り」と相場が決まっていました。
辞世の句、「伯鶴は永々嘘をつきました どうせあの世で 舌はないもの」は、「講釈師見てきたような嘘をつき」を踏まえています。
この方は、チャラを入れるのが得意で、子ども達にも分かるような講談だったそうです。
少し長くなりましたが、あと一つ、この寺にはこんな伝承があります。
1616年(元和2)橋場(足立区千住)にあったこの寺が当地へ移転の際、梵鐘を隅田川に落としてしまい、そこが、「鐘ヶ淵」と呼ばれるようになりました。