中島ブラザーズ ”弟”の「外で遊ぼう!」

近頃は日本海で、ヒラマサを追ってばかり。よって磯釣りや渓流釣りは休止状態ですが…。

ボクが大キライな言葉と、大好きな”釣りワールド”

2010-05-29 12:30:12 | 釣り一般
■嫌いな表現■

 「太公望達がノンビリと釣り糸を垂れている。」
これは新聞やテレビなど、報道機関で釣り風景を表現する言葉としてよく使われているフレーズだ。だが、ボクはこの表現が大キライだ。理由は後で解るが、「的を外している」と感じる釣り人は多と思う。
 また、CMやドラマで釣りをするシーンを採り上げていることがあるが、例えば「両軸受けリール」という、竿を持った場合に上側に装着するリールを反対向けにしていたり、変に端っこの部分を握ってバランスを崩していたりと、とても考証をしているとは思えないシーンに出会うと、本当にガッカリとしてしまう。
 かつてドラマ「北の国から」等の脚本で有名な倉本聰氏が
 「ドラマというフィクションの中の描写で細かい部分で『ごまかし』をやってしまうと、全体がウソっぽくなる。」と言っているのを見たことがあるが、正にその通りで、ボクも
 「何でやねん。」とツッ込んでチャンネルを変えたくなってしまう。

 釣りという趣味は様々な情報を元に次の一手を打つという「ゲーム的要素」、魚を掛けてからは糸をかばいつつ、切られないように操作する「スポーツ的要素」、釣りの種類によっては「山登りの要素」や「ボート操船の要素」まで含まれ、それぞれが複雑に絡み合っているからオモシロイのだ。そんな釣りを文章で表現し、その実際を想像してもらうのは非常に難しい。以前までは、磯なら磯、渓流なら渓流で釣りをする人に対する情報を流すつもりで時系列順の簡単なレポートを3年以上このブログを書き続けてきたが、ふと
「釣り人以外の人が見ても、そのおもしろさが伝わっているのだろうか?」と思う瞬間があったのは事実だ。
 そこで、大袈裟?な表現をすれば、釣りの魅力を後世に伝えなくてはならない年にもなってきたことでもあるし、釣り場での実際を伝えて、「その魅力を少しでも共感し、理解してくれる人が増えるならば」と、お気付きの人がいれば幸いだが、「高原川のレポート」を始めた辺りからスタイルを変えている。
 特に、頭の中で何を考え、それをどうやって実行に移しているかを以前よりも詳しく書いているつもりだ。


■釣り場での現実■

 釣りをしている最中、ボクの頭の中では四六時中、様々な思考がグルグルと巡っている。特にこれは性格が影響しているのか?疑り深さが支配することが多い。例えば、1匹の魚を釣ると普通であれば、しばらくはそのまま仕掛を触らずに流す人が多いものだが、ボクの場合は魚を釣った、そのすぐ後の1投目であっても、続くアタリがすぐに無ければ、「もう魚のタナ(泳いでいる深さ)が変わっているのでは?」と疑ってしまい、エサを流す層や距離を変えようとする。
 また、水面や地形を見る目は常に鋭く、得られる情報全体から魚の気配を感じ取ろうとしている。だから、格好つける訳ではないしレベルも全然違うが、プロ野球の打者がホームランを打った際の球種や球筋を覚えているのと同様に、釣りを本格的に始めてから、現在までの間で印象に残っている魚を釣った場所の風景や背景を映像で覚えている。そして「その場に行って、魚を釣った水面を指せ」と言われれば、確実に「ここだ!」とピンスポットで指し示す自信すらあるのだ。それくらい息つく暇もなくアレコレと集中して考えている訳だから当然、「ノンビリと釣り糸を垂らしている」ヒマなど皆無なのだ。もし、どうしても他人からそう見えてしまうのなら、それは集中しすぎて邪念が消えたことで逆に間の抜けた馬鹿面をしているせいではないのか?とも思ってしまう。
 現場では、こんな調子で常に釣りのことばかりを考えているから、それこそ周囲からは「そのまま飲み込んでいるのか?」言われるくらいのスピードで食事をとっている。そう言えばその昔、妻と釣りに行った最中に手作り弁当を食べていたのだが、鷲掴みで食べる様を見た彼女に叱られた経験があるくらいだ。今、凝っている渓流釣りでも途中で「河原に座って…」という余裕もなく、時間節約のため車の移動中に「次はどこに入ろうか?」と考えながらパンをかじっている次第だ。
 また、年に一度のペースで釣行している男女群島での磯釣りの場合、現地2泊3日の航海中には約58時間に渡って磯の上に居る計算になるが、その間の睡眠時間は合計でも8時間は確実に切っているだろう。もちろん起きている間は、短時間でとる粗末な食事タイムを除いて釣りっぱなしの状態だ。
 しかしながら、そこまでやっても大したことがない釣果も多いことが問題なのだが…。
 ここまで「根(こん)を詰めた釣り」を実践している人が、どのくらいの割合で居るのかは判断できないが、多かれ少なかれ、集中している時にはそうなっていることだろう。ボクが尊敬する釣り師である小里哲也さんは「釣りたければ魚になりなさい」と、よく書いておられるが、正しくその通りで、魚を釣りたければ人間の都合よりも魚の都合に合わせるしかない。そのためには考え抜き、実践するしかないのだ。


■様々な釣り■

 一口に釣りと言っても様々な種類があるのは皆さんもご存じだとは思うが、好みには当然個人差がある。ボクの場合は現在では「磯のグレ釣り」「渓流(特に本流での)釣り」「船から狙うマダイ&ヒラマサの”完全フカセ釣り”」の中から、その時にの気分や、釣れ具合でセレクトすることが多いが、これらの釣りに共通するのは、「引きが強いターゲットに対して繊細な方法でアプローチする」という、テクニカルな要素が多い部分だ。だから、今まで色々な釣りをこなしてきたが、大味に感じる釣りは長続きしなかった。考えることが多ければ多いほど、やることが多ければ多いほど楽しく感じるのだ。その意味ではトローリングのような、ある意味「船頭(キャプテン)任せ」の部分が多い釣りには全く興味が湧いてこない。

 
■Mの世界■

 ここまでボクが「如何に考え、如何に行動しているか」を書いてきたわけだが、振り返ってみるとホントに窮々と考えながら釣りをしていることが多い。モチロン、ボクも人間だから、ふと前方に見える景色に感動したりもすることもあるが、それは稀だ。また、人からは「よく一人で行くな~。」なんて言われることもある。モチロン、行き帰りくらいは人が居た方が「寂しくないかな?」と思うことも多少程度はあるが、いつもこんな調子だから釣り場に着いてからは一人でいることは全く平気で、むしろ孤独に一人で悩むことを楽しんでいるくらいだ。だから、もしかしたら釣りの最中にボクは「『Mの世界』をさまよっているのかも知れない?」とも思う。

 このブログを読んだ釣り人以外の人からは「そんな苦しそうな趣味の、どこが楽しいの?」と言われてしまいそうだが、ボクがこれまで30年以上に渡って釣り続けてこられたのは、こんな苦労をして導き出した先にある「大物との出会い」の味を何度か味わっており、そこで得た感動は苦労をして得た物ほど大きいことを知っているからだ。
 そう、「緊張と緩和の連続」これがボクの釣りの神髄だ。
 以前B・バス釣りに凝っていた頃に読んだ本の冒頭には、こう書いてあった。
 「悪魔の趣味にようこそ」
長らく悪魔に心を捕まれたままのボクなのである。




■追伸■

   

 このブログが公開された時間には、帰港のために九州本土近くを航行している最中だと思うが、実は26日夜からは恒例の「男女群島ツアー」に参加している。
 好敵手である「尾長グレ」という悪魔に魅入られ続けて、このツアーへの参加は今年で連続4年目に突入している。しかし、結果は2年目の一昨年にイイ目をした以外は思わしくない。今年はどうなっているのやら…。だが、相変わらず、ほとんど寝ずに考えて釣りをしてるんだろうな。ともあれ今回のツアーの内容については来週、このブログで報告だ。
コメント
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