「ケアンズのどこがそんなに好き?」
その頃毎年ケアンズを訪れてた私に、ケアンズ在住Pちゃんは
お茶をすすりながら尋いた。
ケアンズはビーチこそ持ってないが、少し郊外に行けばビーチもあるし
亜熱帯のジャングルもサンゴ礁もとびきりの美しい自然が全て備わってる町だった。
「花、植物いっぱいの街並みかな」
ケアンズの町は海岸沿いに芝生のエスペラネード公園の大木を主として、
美しい花々や椰子の木々が囲み
グリーンシーズンと呼ばれる6月は事さらに
それぞれ広いガーデニングされた庭の住みやすそうな家など眺めながら
植物園のような公園の街を
何時間見て歩いても飽きなかった。
日本がバブル前夜のこの頃はケアンズはまだ人口6万人ほどの
ゆったりとした地方の田舎町だった。
当時パークロイヤルホテルはこの街のシンボル的なホテルで
コロニアル風の瀟洒な建築は古き良き時代のケアンズの歴史を物語っていた。
イギリスの流刑地だったこの国は
ホテルでも当地のご婦人達がその名残りで
ハイティーに集まり、ミートパイや生クリーム付きスコーンと紅茶を楽しみ
何時間も何時間もお喋りして午後を過ごしていた。
高い天井に大きな扇風機がゆっくり貿易風を送る。
この優雅でゆったりとした時間の流れは
慌ただしい仕事、競争、エコノミックアニマルと言わしめる
日本での毎日に悲鳴を上げていた私が、
どれ程この地を愛していたか語る最大の理由だったかもしれない。
その頃私が住んでいたのは辺鄙な離島で
Pちゃんはその片田舎街に週一通ってくる英語の先生だった。
最初会った頃は金髪碧眼でキレイな子だった気がするが、
私は彼がオーストラリアに帰る少し前に英語を習い始めたので
その後の付き合いの方が長く
残念ながら会うたび太ってて髪が薄くなっていったPちゃんしか
思い浮かばない。………。
「夕食どうするの?電話して」
西洋では夕食を一人で取るのは変人らしい。
その為には多少嫌いな相手だろうと午後から会った人は離さない。
海岸沿いのエスペラネード通りには
お洒落なバーやレストランがアフター5を賑わしていた。
私はここで公園越しに海を見ながら
ハッピーアワーのシャンパンと生牡蠣を食べるのが楽しみだったが
女性が一人だとコールガールと思われるらしい。
私は旅行に行くにも食事に行くにも
オトモダチはいなかった。
Pちゃんは私が何処にいても、街が狭いので探し当て
食事を一緒に取ってくれた。
ホテルマニアきっかけにもなったポートダグラスのシェラトンミラージュホテルや
その名の如く夢のように美しいパラダイスパーム、グレートバリアリーフ、グリーンアイランド等
色々案内してくれたしお世話にもなった。
シドニーやゴールドコーストに行っても、
旧友を訪ねてケアンズまで足を伸ばしたし
彼が日本に来た時も、東京から飛行機とフェリーを乗り継ぎ
あの僻地まで訪ねて来てくれた。
オーストラリア人はジェントルマン?と思うのは早計だ。
彼らは若い時期、一軒の家を数人でシェアして住んでいる人が多い。
「今、日本人の子もいるから家に泊まって良いよ、」とPちゃん。
オーストラリア移住も考えていた私は、2、3日彼の家に滞在する事になった。
日本人シェアメイトK君は優しくて気が利いて、長シャワーのマイクさん達と
楽しいお茶の時間を過ごしていた。
大酒飲みのPちゃんのお部屋にみんなで入ると
ドアの手前のカーペットに大きな人型のシミがあった。
「これ、なんだと思う?」
オーストラリアは銃社会だっけ?と考えて
「人が撃たれた跡?」
真剣に答えると、K君の顔に緊張が走る。
「吐いたの」 ギャーハハ、
大声で腹を捩らせて笑うPちゃん。
…そう、そんな感じのヤツ。
大酒飲みだとあんな大ゲロ吐くんだろう。
メチャ世話になったよ。…💢でも
「Y.Kさんの電話番号知ってる?」
Y.Kさんは私の田舎で一緒に英語を習ってる知人だ。
「知らない」
「えー、声聞きたくない?」
Pちゃんはわざわざ日本の電話局でY,Kの番号を調べて電話し始めた。
「もしもし、元気〜?」
私はイヤな予感がしてキッチンにまわった。
「今、ここにMさんがいるよ」
ひいいい〜、コイツ、田舎に一年も居て田舎がどんなか知ってるくせに!!
「Mさんにかわる?」
ブンブン首を振る私。
「今ね、ダイドコロでうろたえてる、ギャハハ〜」
嬉しそうに笑うPちゃんの声はダイドコロで響いていた。
その日の夕刻、Pちゃんは再び電話番号を調べて
別の英語の生徒に電話かけた。
どちらも私の知人だ。
ひと通り何やら喋り終え
受話器を置いたPちゃんは嬉しそうににんまりとほくそ笑み、
『ねえねえ、今の電話で 「Mさん、そこに泊まってるんだってー?」
って聞かれた。ウワサ広まるの早いね〜」』
…終わった…
「人のウワサを気にする奴はクズよ」
Pちゃんはギャハハ〜ッとさらに大声で涙して大笑いしてた。
昼ごろ電話してたのに、もう町中ウワサは広まってるんだ。
夫はわかってくれるが、また恰好の悪評が渦巻くだろうよ…。
アンタの国みたいにジョークが通用する土地じゃないんだよう…。
その頃国際電話高いのに
経済的損失より嫌がらせの快感の方が優ってんだ。
でも会うたびお笑いよろしく身体全体の面積は広がって
お腹の脂肪をダボダボさせて踊るPちゃんは憎めなくて
ケアンズに行くたび
多少 なヤツでも
夕食時は探しあっていた。
「パークロイヤルホテル、日本資本に買われたんだって!」
日本がバブル期に移ると
この地のシンボル的ホテルや、
彼らが誇るサンゴ礁のグリーンアイランドもパラダイスパームも日本の会社に買収された。
幾度となくその地に通い、彼らの心情を察すると
私には居心地の良い場所ではなくなって行った。
日本人はお金持つとこんな事しか思いつかないのか?
Pちゃんからパーティに連れて行ってもらった事がある。
どっかの社長が従業員を招いて開いてるパーティで、
まずクルーズ船で2時間ほどかけてフィッツロイアイランドに向かう。
パーティは船の中から始まっていてシャンパングラス片手に
それぞれに着飾った人達がくつろいでいた。
貝殻で出来た白い砂浜に到着すると
島のホテルでガーディンパーティが始まる。
映画のようなステキなセット、
音楽の合間に波の音が耳を誘い、椰子の葉陰に星空が広がる。
日本人の私は、こんなパーティ一生に一度も行けると思ってなかった。
映画のワンシーンのような雰囲気に面食らっていた。
言いにくい私の名前を、会う人誰もがちゃんと覚えてくれていて
グラスを片手に私に言った。
「人生の最大の喜びは、好きな人とワインを飲んで、語らって、語らって、語らって」
幸せな国民…
オーストラリアは不景気って聞いてたけど
生活は何て恵まれてて豊かなんだろう、
その頃経済大国と言われていた日本人は
働くので精一杯で、こんな人生の楽しみを知る者は
どれ程いたか。
他国の誇りを買い漁る金はあるのに、
ワインをおごる気はないらしい。…。
語らって語らって…って、…そんな時間のある人もほぼいない。
「こんなパーティ、日本じゃなかなか行けないけど、
この人達一年に一度くらい連れてきてもらえるの?」
と聞いたら
「え、週一だよ」
あれから何十年も経ってバブルも弾け
日本の経済はずっと停滞したままだ。
大企業は余った金を内部保留して
未だ国民をパーティには招待してないようだ。
相変わらず日本人は働きづめの生活で
西洋のような恵まれた生活とは程遠い。
でもお金だけ求めていたあの時代より人々は豊かに感じる。
ケアンズにはもう行かない。
パークロイヤルホテルが日本人の手に落ちた時思った。
でも、あの時のように
敵意と嫉妬と反発が混ざった眼差しで睨まれ
世界中で日本車がハンマーでぶっ叩かれたり焼かれたるするより
日本人は、貧乏でも
世界の人々から愛される今の方が
きっと居心地が良いんだろう。
10年後、たまたま南太平洋クルーズでケアンズに旅行友ヤツと寄港した際
Pちゃんのオフィスを訪ねた。
資源国オーストラリアは好景気に沸き、
Pちゃんは従業員の給料を時給2500円程払ってる、と大変そうだった。
日本人はもう少し戦って労働に見合った収入を勝ち取って欲しいと願う。
久々のケアンズはカジノが出来て、エスペラネード公園は味気ない近代的なプールになっていて
発展した都会になってた。
「水が1本500円??」
絶好調の景気のドル高もあって
グリーンアイランドもパラダイスパームもポートダグラスも案内しなかった。
「あんたのケアンズはもうないんだよ」
ヤツは高い水を飲みながら、優しく言った。
今はもうあの離島には住んでいないし
昔のように1人で旅行に行って1人で食事しなくても
旅行の連れも出来たので、また他の地方のひなびた田舎町を探して
ハッピーアワーにシャンパン飲みに行こう。