セミの鳴き声に引かれて、
神社境内に入ってしまった
細田神社縁起
江戸時代初期、はじめ曲金村の新田として開墾され細田村となりました。
地名の由来は、一説では、慶長年間に紀州熊野の細田某がこの地に来て開発したためといわれています。どうやら「新田」ということから江戸時代以前は開発されていなかった土地だと思う方が多いようです。
元々は曲金地域の一部で、少なくとも中世の室町期には開発され、人々が暮らしていました。なぜそのようなことがいえるのかというと、室町時代に荒廃した土を改めて開発し直したことから、「細田」という新しい地名が誕生したのです。(葛飾区HPより)
江戸時代初期、はじめ曲金村の新田として開墾され細田村となりました。
地名の由来は、一説では、慶長年間に紀州熊野の細田某がこの地に来て開発したためといわれています。どうやら「新田」ということから江戸時代以前は開発されていなかった土地だと思う方が多いようです。
元々は曲金地域の一部で、少なくとも中世の室町期には開発され、人々が暮らしていました。なぜそのようなことがいえるのかというと、室町時代に荒廃した土を改めて開発し直したことから、「細田」という新しい地名が誕生したのです。(葛飾区HPより)
蝉を追いかけて
蝉に引かれて細田神社ではありませんが、8月18日蝉を探しに外 に出ました。コロナ自粛で久しぶり、蝉が居る所なら「東井堀」と決め込んで出かけた。この用水堀を西に遡ると細田神社です。神社ならたくさんの蝉に合えるであろうと、境内に踏み込み蝉の合唱に出会うことが出来ました。
蝉に引かれて細田神社ではありませんが、8月18日蝉を探しに外 に出ました。コロナ自粛で久しぶり、蝉が居る所なら「東井堀」と決め込んで出かけた。この用水堀を西に遡ると細田神社です。神社ならたくさんの蝉に合えるであろうと、境内に踏み込み蝉の合唱に出会うことが出来ました。
細田神社本殿
入り口の鳥居、西にも裏口があり鳥居があります。
≪ 祈り≫コロナ早く治まって・・・・
都市化の波で宅地化に合うように区画整理を行った、その記念碑。
力 石
本殿
葛飾区保存木・銀杏
細田&鎌倉の地概略
細田、鎌倉地域は幹線用水路がありました。
そして支線へとつながら編みの目の様な用水路がありました。
埋め立てられた用水路、現在緑歩道
特産品を生んだ農村から住宅地へ
鎌倉には、小合溜井(現在の水元小合溜)から小岩用水という水路が流れ、田んぼで使われていました。
鎌倉では米以外に野菜もつくられていて、有名な特産品もありました。小カブと、ネギの仲間であるワケギです。小カブは市場で「曼荼羅小カブ」とよばれ、品質がよいことで有名でした。また、1955(昭和30)年ごろにはワケギも栽培され、「曼荼羅ワケギ」とよばれました。
その後、鉄道や道路などの交通網が整備され、都心への移動が便利になると、鎌倉に住む人が増えていきます。1955(昭和30)年の人口は約5500人でしたが、10年後には約1万1400人と2倍以上になりました。
人口が増えるとともに、それまで田んぼや畑だった場所が住宅地になり、水路には家庭の排水などが流されるようになりました。下水道が整備されると、水路は道路になりました。1997(平成9)年に整備された鎌倉かなえ通りにはかつて小岩用水が流れていたのです。「かなえ」とは小岩用水にかかっていた一番古い橋の名前です。
筆者の住む細田も鎌倉と隣り合わせていますから、似たり寄ったりです。鎌倉には小岩用水、細田には「東井堀」の用水が昭和45年位ほど迄、水路として水が流れていました。
現在は初めに記したように親水埋め立てられて緑道となっています。住民の人達により草花が植えられています。やはり細田地区も鎌倉と同じように水田は米、畑作はネギや枝豆を栽培し神田市場へ出荷していました。鎌倉も細田も水元から流れ出た「用水」によって田畑が潤っていたと言っても過言ではありません。
都市化の波はこの地域にも一挙に押し寄せて、現在では数えるほどの農家の軒数になり、分葱や枝豆などは忘れられた存在です。小合溜井の水元地域に行きますと農家がチラホラ散見できるようです。
コメント欄はOPENです
小カブとワケギ、好きで買いますよ。枝豆も美味しそうです。
野菜作りの農家が残っているのは良いですね。
そういえば 蝉の声は聞こえていませんね。
>分葱や枝豆などは忘れられた存在です。
そうなんですね。 どちらも大好きです。
分葱はゆでて ぐるぐる巻いて酢味噌で頂きます。
今日もいい日でありますように・・・
玉垣の名前が新しいように思います。
子どもの頃は神社でよく遊びました。
蝉を追って神社へ出かけられた気持ちがよくわかります。
当方では神社の拝殿が焼けたり、餘慶寺の平成の大改修で氏子や檀家に多大な寄付が求められました。
どちらも5㎝×15㎝ほどの小さな銅板や木札に名前が小さく描かれているだけです。
この度、餘慶寺の弁天池の石垣(由緒あるものだそうです)を積み直すための寄付が呼びかけられました。
誰かさんは、玉垣に名前が残るとへそくりを持って行きました。💦
由緒ある細田神社を紹介していただき、勉強になりました。
分葱はどうして召し上がっておられますか?
熊本では少し茹でてからグルグルに巻き、酢味噌を付けて食べます。
「ヒトモジのグルグル巻き」として定着しています。
今朝は幾分しのぎやすく感じましたが
昼は相変わらず暑くなりそうです。
こうして 地域の昔からの歴史を教えていただくと 神社へお参りに行っても
近くを散歩しても 楽しくなりますね。
・ こう暑くては 出るに出られぬ 籠の鳥 (縄)
汗たらたら、これ生きている証拠と我慢して・・・・。
セミの鳴き声も変わって来たようです。
。
・蝉の声 夏から秋へ 声変わり (縄)
この辺は都会と言いましても、東京のど田舎、しかし都市化の波は急激に!!押し寄せ
水路は、歩道や車道に変わりました。
御住まい付近を地図で見ていました。
江戸川と新中川に挟まれた場所のようですね。
土地音痴のために「鎌倉」があの露座の大仏様のあるあの鎌倉かと早とちりをしてしまいましたが、細田の近くに「鎌倉」がありましたので得心できました。
農地を潰して住宅地にしながら現在の東京が出来て行ったのでしょうね。
そうしながらも、残すべきものは遺して行く、東京のダイナミズムを感じました。
≫玉垣の名前が新しいように思います。
この辺のむかし農家さんは、土地を手放したりでお金をたんまり持っていると聞きました。
そう言えばそれらの人々が・・・・・。
餘慶寺の平成の大改修で氏子や檀家・・・・・それは大変でした、多額の寄付をされたのでしょう。
我、ここの神社毎年の経費・会費が5,000円です。役員さんが集金に参ります。
。
ドンコさんは神社仏閣については、正楽寺でいろいろとお骨折りなさっていますから、この神社は回収の時期、これはまだ10年…などと目利きが聞くことでしょう。
≫分葱はどうして召し上がっておられますか?
ハイ、茹でてみそぬたで食べます。
。