伝通院
傳通院は、東京都文京区小石川三丁目の高台にある浄土宗の寺。
正式名称は、無量山 傳通院 寿経寺(むりょうざん・でんづういん・じゅきょうじ)。または小石川伝通院とも。
徳川将軍家の菩提寺。
江戸三十三箇所観音札所の第十二番札所。「でんずういん」とも書かれる。 (Wikipediaよ)
伝通院山門
山門の佇まい
山門を通して本殿を見る
鐘撞き堂
伝通院の案内書き
小石川あたりの七福神巡りを散策中、伝通院へ立ち寄った。
院内は広大で墓地のあちこちを見て歩きました。真珠院(布袋様)の至近距離です。
伝通院は徳川家にゆかりある人物のお墓が幾つかあることでも知られています。
於大の方は家康の生母で、伝通院はその菩提寺です。
於大の方
千姫さまのお墓は、小石川伝通院のお墓にお参りしてまいりました
千姫のお墓は、伝通院の本堂の西側に広がっている墓域の北側にあります。
千姫さまは慶長3(1597)年の本日、徳川秀忠と江姫の長女として誕生します。
何と2歳の時に大坂の秀頼さまとの婚約が成立し、7歳で嫁ぎます。
まだ20にも満たない19歳で大坂の陣が勃発し、夫の秀頼さま(23)は自害。
千姫さまは助け出され、今度は姫路の本多忠刻の許へ再嫁します。
忠刻との間に一男一女をもうけますが、長男・幸千代は幼くして亡くなり、
程なくして忠刻も後を追うようにこの世を去ってしまいます。
この時千姫さまもまだ30代。2人目の夫を亡くしたのちは江戸へ戻り、
髪を下して「天樹院」と号します。
法名は「天樹院殿栄譽源法松山禅定尼」。
(歴史と文化と和の心より転載)
法 名
探検団の皆さんと今ではちょいと考えられない
とてつもなく大きい!!墓ですと見て回る。
堺屋太一氏の墓
千姫の墓所に行く途中の左側に有りました。
堺屋 太一(さかいや たいち、1935年7月13日 - 2019年2月8日)は、日本の小説家・作家、評論家、元通産官僚、経済企画庁長官(第55〜57代)、元内閣特別顧問。株式会社堺屋太一事務所および株式会社堺屋太一研究所の代表取締役社長。内閣官房参与。様々な博覧会のプロデューサーとしても活動している。
本名は池口 小太郎(いけぐち こたろう)であり、ペンネームの由来は、先祖の商人が安土桃山時代に堺から谷町に移住した際の名前である「堺屋太一」から採ったものである(堺屋は屋号にあたる)。(Wikipediaよ)
コメ欄は閉めています。