年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

樽 沢庵漬の容器の話3

2006年02月01日 | タクワン
桶と樽  脇役の日本史 小泉和子/編より

中世において、日記等の資料によると果物・野菜等の贈答には曲物や結物に、酒などの液体は錫製の瓶子や陶製の壷にと容器が使い分けされていた。容器の機能を見ると運搬用と生産貯蔵用とに分けられる。結物は早くから運搬容器として利用されている。壷・甕が酒の醸造・貯蔵容器として地位を占めていた。
 室町時代、酒造業が発展し、幕府は酒税(酒壷銭)を掛け始まった。酒壷一つを単位としていた。その課税状況は、壷の大小を問わず、醸造中であれ空き壷であれすべて課税されていた。当時の脱税手段として、壷の検査に際し人に預けたり,売ったり、他人に譲ると約束したり、人の預かり物と偽って言い逃れすることを禁じている。酒の小売屋・味噌屋は課税されないが土倉を構えて多くの壷を所持するものは課税の対象となっていた。醸造業を営むものは多くの壷を所有していたが、空き壷の数が醸造中の壷の数を上回ることが多く、すべての壷が活用されてはいなかった。
樽は解体保存できることから,樽による酒つくりが非醸造期間中は節税手段として有効であったかもしれない。醸造用の壷・甕から10石から20石入りの木樽できるようになると、急速に樽に変わった。壷の大小に変わらず課税されていたので大型化し、かつ醸造技術の進歩によって少量生産によるリスク分散を図る必要性が減ったと思われる。近世初期の上方において、四斗樽が出現することによって酒を江戸に運ぶことが可能となり、輸送業が発達した。四斗樽は吉野杉が尊重され、杉の木香が酒に移り、芳醇な清酒なった。このため摂泉12郷の酒造の発展は吉野林業の発展をもたらした。と同時に日本の木材加工技術を発展させた。沢庵漬の容器の樽は酒の輸送に使われた空き樽の再利用である。
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