喜田川守貞著 守貞謾稿より
塩
今世、諸国の海浜これを製すといえども,播州赤穂を上品とす。また江戸に漕す物は阿州多し.斉田塩と言ひ、阿の斉田専らこれを作るなり。(徳島の斉田塩)
『世事談』に云う,焼塩は天文年中,洛上鴨畠枝村藤太郎と云う物,泉州湊村に住居し、紀州雑賀塩を土壷に入れ焼き返し、諸国に出す。壷塩屋藤太郎と云う.承応三年甲午、女院御所より、おほけなくも天下一の号を、時の奉行石河氏に命じて賜る。また延宝七年,鷹司殿下より、折紙状を賜ふ。呼ぶ名は伊織と号す。猿丸太夫の末裔なりと伝ふ、云々。
江戸近浜には、行徳にこれを製す。
守貞謾稿は江戸時代末期の文献ですが塩の記述は他の食品、調味料等と比較すると少ない。当時はもう余っていたし、ブランドが確立されていたかもしれない。
焼塩
「せんごう」で得られた塩は「荒塩」と呼ばれ、ニガリを含んでいるので吸湿性が高く、時間がたつと液体化してしまいます。そこで更に土器に詰めて熱を加える。
苦汁分が変成して固まりになる。サラサラした状態を長く保つことができる。更に高温で焼塩を作ったものは、塩が粉砕され微粒の焼塩になる。再加熱した塩を「焼塩」と呼びました。漬物用の塩はニガリの多さに関係がなく漬けられる。
塩
今世、諸国の海浜これを製すといえども,播州赤穂を上品とす。また江戸に漕す物は阿州多し.斉田塩と言ひ、阿の斉田専らこれを作るなり。(徳島の斉田塩)
『世事談』に云う,焼塩は天文年中,洛上鴨畠枝村藤太郎と云う物,泉州湊村に住居し、紀州雑賀塩を土壷に入れ焼き返し、諸国に出す。壷塩屋藤太郎と云う.承応三年甲午、女院御所より、おほけなくも天下一の号を、時の奉行石河氏に命じて賜る。また延宝七年,鷹司殿下より、折紙状を賜ふ。呼ぶ名は伊織と号す。猿丸太夫の末裔なりと伝ふ、云々。
江戸近浜には、行徳にこれを製す。
守貞謾稿は江戸時代末期の文献ですが塩の記述は他の食品、調味料等と比較すると少ない。当時はもう余っていたし、ブランドが確立されていたかもしれない。
焼塩
「せんごう」で得られた塩は「荒塩」と呼ばれ、ニガリを含んでいるので吸湿性が高く、時間がたつと液体化してしまいます。そこで更に土器に詰めて熱を加える。
苦汁分が変成して固まりになる。サラサラした状態を長く保つことができる。更に高温で焼塩を作ったものは、塩が粉砕され微粒の焼塩になる。再加熱した塩を「焼塩」と呼びました。漬物用の塩はニガリの多さに関係がなく漬けられる。