大山講と秦野大根
江戸中期頃から、練馬の農民、町民の間に大山講が盛んになった。相模の国、大山 阿夫利神社は農業・商工業・殖産・養蚕などの守護神で、とくに練馬の農民にとっては、畑作に必要な雨を呼ぶ雨乞いの神様でした。
大山講には、大山信仰を広めたのは御師(おし)とよばれる先導師という人がいて、大山をお参りする人々の道案内をしたり、先導師の家が宿屋でもあったので、これらの人々の接待もしました。先導師の宿坊では精進料理が出ます。もちろん、大山名物の豆腐が出ます。この先導師という人々は、もともと大山で修行をしていた修験者(しゅげんじゃ)だった人たちです。
江戸時代の庶民は、働くことも働くが、大いに余暇もたのしんでいたわけで、大山は江戸庶民の格好の観光地でもありました。信仰の対象である阿夫利神社の先導師は、江戸八百八丁のすみずみまで立ち入って大山講を組織していました。先導師の積極的な講の組織活動は、現在、観光産業によってさかんに展開されている各種イベントやツアーの組織と共通する面が多くみられます。
現在の練馬の富士街道は別名大山街道と呼ばれ、石神井・田無・府中を通り大山に到る参詣道でした。
大根名産地である練馬の講中が富士や大山参りの途中に秦野を往来した。栽培に熱心な農家なら、当時でも有名だった波多野大根を手にして、練馬に植えたとしても不思議でない。享保以後の練馬大根の品種としての成立には秦野大根との関係がある。同様に、小石川の幕府の菜園からも交媒されて新しい大根の品種となったのもある。練馬の農家の品種改良によって練馬大根が誕生した。
大山道
大山道は矢倉沢往還とも言い、江戸城の赤坂御門より青山、三軒茶屋,二子、溝口,荏田、厚木、伊勢原を通り箱根の矢倉沢・足柄峠を越え,甲府や沼津方面に分かれていきました。江戸時代に古いそれまでの道をつないで作られ丹沢の大山に参詣する道として、賑わいました。東海道のわき道として、また、秦野のタバコや相模川のアユ,多摩のマキや炭を江戸に運ぶ道としての役割もありました。
江戸中期頃から、練馬の農民、町民の間に大山講が盛んになった。相模の国、大山 阿夫利神社は農業・商工業・殖産・養蚕などの守護神で、とくに練馬の農民にとっては、畑作に必要な雨を呼ぶ雨乞いの神様でした。
大山講には、大山信仰を広めたのは御師(おし)とよばれる先導師という人がいて、大山をお参りする人々の道案内をしたり、先導師の家が宿屋でもあったので、これらの人々の接待もしました。先導師の宿坊では精進料理が出ます。もちろん、大山名物の豆腐が出ます。この先導師という人々は、もともと大山で修行をしていた修験者(しゅげんじゃ)だった人たちです。
江戸時代の庶民は、働くことも働くが、大いに余暇もたのしんでいたわけで、大山は江戸庶民の格好の観光地でもありました。信仰の対象である阿夫利神社の先導師は、江戸八百八丁のすみずみまで立ち入って大山講を組織していました。先導師の積極的な講の組織活動は、現在、観光産業によってさかんに展開されている各種イベントやツアーの組織と共通する面が多くみられます。
現在の練馬の富士街道は別名大山街道と呼ばれ、石神井・田無・府中を通り大山に到る参詣道でした。
大根名産地である練馬の講中が富士や大山参りの途中に秦野を往来した。栽培に熱心な農家なら、当時でも有名だった波多野大根を手にして、練馬に植えたとしても不思議でない。享保以後の練馬大根の品種としての成立には秦野大根との関係がある。同様に、小石川の幕府の菜園からも交媒されて新しい大根の品種となったのもある。練馬の農家の品種改良によって練馬大根が誕生した。
大山道
大山道は矢倉沢往還とも言い、江戸城の赤坂御門より青山、三軒茶屋,二子、溝口,荏田、厚木、伊勢原を通り箱根の矢倉沢・足柄峠を越え,甲府や沼津方面に分かれていきました。江戸時代に古いそれまでの道をつないで作られ丹沢の大山に参詣する道として、賑わいました。東海道のわき道として、また、秦野のタバコや相模川のアユ,多摩のマキや炭を江戸に運ぶ道としての役割もありました。