年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

練馬大根物語4 練馬大根の誕生 

2006年02月26日 | 趣味としての漬物
 江戸中期まで
練馬大根の誕生は明暦の大火後、江戸の都市の再建に伴い人口が急増し、江戸郊外である練馬の地に蔬菜の需要が生じ、大根がたくさん栽培されて、やがて新種の練馬大根が誕生した。
練馬大根の誕生の伝説は大ざっぱに分けると綱吉説と百姓又六説がある。時代と地域によって変化しているが、どちらの説を採るにせよ、上・下練馬村の富士街道(大山街道)沿いにあることに注目してよい。
練馬大根が盛んに栽培されたのは元禄のころからであり、その頃から練馬の地域は大山講が盛んになった。大山講の土産としての波多野大根の種が練馬の地の大根と交配して、新種の大根となったといわれる。
詳しくは、練馬区の“練馬大根”のホームページで。
 新版 練馬大根 練馬区教育委員会著によると
元禄10年に出版された(本朝食鑑)の刊行以前の10年から25年さかのぼって、練馬大根の栽培が江戸近郊を中心として、会津地方まで及んでいた。

需用と供給は経済の大原則ですが練馬大根の普及が進んだのは、江戸幕府の指定野菜になり、生でも良し、干しても良し、沢庵漬にしても良いと大根の性質がありました。現在のように冷蔵庫等の保存技術のない江戸時代、野菜の物価の安定に大根は良い野菜でした。更に練馬の地は大根の栽培に適した土地でありました。ただ、欠点として江戸から少し離れていたため、時代によって、栽培の盛んな時と、衰えた時があります。生大根(亀戸大根)のライバルの登場、舟運の便の悪い練馬の肥料の価格上昇等があります。
コメント
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