年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

練馬大根物語5 種子の広がり

2006年02月27日 | 趣味としての漬物
日本人の旅には土産は必要である。この由来は江戸時代の寺社詣でを大義名分として庶民(多くは農民)の旅文化が多いに発達した。その旅行の多くは講を作っての団体旅行であった。その費用は積み立てた講費を限られた代参者が旅する事で成り立っていた。講費で代参した場合、講の人に寺社に参拝した証拠が必要となる。講費と餞別が旅土産を義務づける。従って、土産に包装の箱や紙に寺社名や地名等が書いてあり、旅に行けなかった人に分配できる必要性がある。
江戸時代の中、後期から発達した旅の土産は参詣人の多い寺社の門前から発達した.当時の旅は徒歩の旅であったので持ち運ばれるもので主であった、当時の土産は軽い手工芸品か薬であった。
滝野川の種屋
江戸時代、道中を通る旅人に江戸の土産として、野菜の種子を販売し、「種子は滝野川」と呼ばれるほど有名であった。中仙道に面していた滝野川の種子屋が有名であった。練馬大根は江戸の名産(土産)として全国に広まっていった。
 食用の練馬大根の栽培は練馬で行い、その種子用大根の栽培は滝野川村で作るように産地が分かれたのである。交配しやすく、変化しやすい大根の種子が偶然にも分業となって練馬大根の種子は立派に維持された。  
 こうして練馬大根の名が天下に知られると共にその種子の需要も増加してき
たので、特に滝野川にあった三軒の種屋は地名(滝野川三軒家)となったくらいである。また諸侯の参勤交代の帰りに、国に帰るものが必ずこれをもとめて村民に分かち作らせたということで、滝野川種子の名声は益々高くなった。
北区飛鳥山博物館では滝野川の種子屋の解説があります。大根の品種の“みの早生”を生んだ、百姓みの吉は滝野川付近の人と学芸員の人は言ってました。ちなみに、板橋区の方では板橋の人と書いてあります。
余談 新撰組・近藤勇は政府軍に捕らえられ滝野川三軒家の石山亀吉邸で人生最後の夜を過ごし、板橋刑場で処刑された。(慶応4年4月25日)頭部は京都に送られ、胴体はこの地の埋められました。
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