年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

大阪朝日新聞のスクープ 3

2007年02月19日 | 福神漬
明治42年11月3日 大阪朝日新聞
会社内の混乱
大阪出張所にては多数の封印を受けて、三塚主任は大狼狽を極め、その旨を直ちに尼崎工場に電話したので社員技師等はほとんど工場を空にして来阪し善後策につき頭をいためていた。鈴木藤三郎主任技師は東京本社に帰社中だったが至急電報により11月1日に尼崎に来て、二日重役を招集し、種々質疑をしていた様であった。同主任技師の談によると『実にゆゆしき失態を演出したものにして、各のごときことが新聞に発表される事態となれば実に会社の死活に関係する。製造所においては断じて左様な(=サッカリンのこと)薬品を投入したこともなければ販売所が顧客の好みに合わせてため、つい混入したためだろう。押収の全部に混入したことは偶然のはずである。元来特別醸造法によるものなれば外気に触ること少なく外部より黴菌が侵入しない限り腐敗することはない。現に横須賀海軍経理部主任渋谷主計中監に練習艦宗谷、阿蘇が遠洋航海の際に試用を願い、赤道直下を二回通過してもなお異常なき証明をいただいた。』と説明していた。

日本で電話が開通したのは1890年(明治23年)、東京大阪間は1899年(明治32年)
練習艦宗谷、阿蘇が遠洋航海とは海兵36期 188名の航海のことか。
明治42.3.14~8.7 横須賀→ホノルル→ヒロ→サンフランシスコ→エスカイモルト(カナダ)→バンクーバ→タコマ→シアトル→ホノルル→函館→大湊→横須賀
 しかし、赤道はどうも通過していない。

明治43年海兵37期がオーストラリア・東南アジアに向かった。赤道を二回越える。従って、翌年の航海と勘違いしていたと思われる。

食品事件の弁解は今も明治時代もあまり変化ないようである。
コメント
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