年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

皐月晴上野朝風 20

2008年12月09日 | 福神漬
皐月晴上野朝風 20
明治23年6月4日 読売新聞 劇評より
下谷竹町湯屋越前屋左兵衛の場

榊原鍵吉は上野戦争の時、寛永寺の輪王寺宮公現入道親王(後の北白川宮能久親王)の護衛を務め、山下(今の日比谷線仲御徒町駅付近)の湯屋、越前屋佐兵衛と二人で交互に宮を背負って三河島まで逃げた。
明治23年5月公演の皐月晴上野朝風で当時生存していた湯屋越前屋左兵衛さんの指導によって、風呂屋の内から見る造りで、菊五郎の意気込みが過剰に現れていた。
『御用』と言って官軍に湯に入れろと言われたが左兵衛は『そりゃ出来ません。公方様と上野にご恩があるのでござります。官軍だってさ天子様の御家来だから悪いとは決してありませんがご恩のある人にたいして出来ません』ときっぱりと断ったセリフで下町の人の懐旧の感情を引き起こしたと言う。

越前屋左兵衛は自身が歌舞伎で登場し、さらに当時の人気役者菊五郎が扮するので連日のように新富座に通ったという。下谷の人々がご当地の歌舞伎で話題となっていたことがわかる。上野山下・三橋・竹町・数奇屋町・同朋町・池之端仲町の人達も通っただろう。

池之端の福神漬と五代目菊五郎の接点はこのあたりから始まったのではないのだろうか。
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