幸田露伴と明治の東京 松本哉著
福神漬と根岸派の関係を調べていくうち、幸田露伴も根岸派の重鎮であった。露伴は生まれが慶應3年で翌年が明治維新なので明治の年代が年齢となる。生まれた地は根岸派の大部分と同じように下谷御徒町でいまのJR上野・御徒町間の線路の下に当たる。今でものこる摩利支天徳大寺のとなりであったという。上野戦争後徐々に落ちぶれていくが住居は今の千代田区神や台東区の中を転々とした。昔の区名で言うと神田区・下谷区を移転した。特に明治24年頃は2年間にわたって谷中7丁目に住んでいた。このことが根岸派の一員となった由来である。
色々な下谷に関係する文人。特に親が幕府の役人とか武士の子孫は明治維新後、上野戦争を語ることが出来ず、ひそかにその精神(左幕=反薩長)を子孫に伝えた気がする。福神漬は漬物だが甘ショッパイ味がその底にある気がしてくる。そして江戸の濃い口醤油の気風が香る。
福神漬と根岸派の関係を調べていくうち、幸田露伴も根岸派の重鎮であった。露伴は生まれが慶應3年で翌年が明治維新なので明治の年代が年齢となる。生まれた地は根岸派の大部分と同じように下谷御徒町でいまのJR上野・御徒町間の線路の下に当たる。今でものこる摩利支天徳大寺のとなりであったという。上野戦争後徐々に落ちぶれていくが住居は今の千代田区神や台東区の中を転々とした。昔の区名で言うと神田区・下谷区を移転した。特に明治24年頃は2年間にわたって谷中7丁目に住んでいた。このことが根岸派の一員となった由来である。
色々な下谷に関係する文人。特に親が幕府の役人とか武士の子孫は明治維新後、上野戦争を語ることが出来ず、ひそかにその精神(左幕=反薩長)を子孫に伝えた気がする。福神漬は漬物だが甘ショッパイ味がその底にある気がしてくる。そして江戸の濃い口醤油の気風が香る。