年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

福神漬物語 61

2010年01月12日 | 福神漬
日本郵船博物館図書室にはカレーライスと福神漬の書いてある本が多数ある。他の本は海事関係や三菱関係・船舶・港湾・交通輸送関係等の書籍の中にあるので異質の本となる。

日本郵船株式会社百年史. 昭和63年刊行であるが、昭和57から58年頃百年史のためのエピソード募集が社報『ゆうせん』に載っており、カレーと福神漬の話が昭和60年の社報に出ている。いわゆるカレー本の福神漬とカレーの関係の記述はここから始まったのではないのだろうか。昭和60年は何かと日本郵船の創立100年ということで注目されていて誰にも無難な話題として、社報『ゆうせん』の記事を引用したのではないのだろうか。
 瑣末の事柄は歴史の中では記述されず、福神漬もこの一例で郵船社員関係者の中では周知の事実であったが記述はされてないので郵船歴史博物館の雑学紹介のエピソードもあいまいな表現となっている。
 日本郵船百年の歴史の中で福神漬はどうして記録にはないか記憶に残っているのだろうか。
日本郵船の始まりと発展は明治日本の御用船徴用の歴史であった。従って社員の意識には他と違う意識があったと思う。百年以上の社史の中で第二次大戦で徴用された商船が攻撃をうけ、犠牲となった船員の数が多数あることを一般人にはあまり知られていなかった。日本郵船歴史博物館の中央に北村西望の大きな彫刻がある。戦争での海難事故犠牲者の慰霊のためにこしらえられたという。その戦没商船の歴史の中で第一次大戦末期インド洋において行方不明となった常陸丸の歴史もあった。日本の商船は軍の護衛も少なく任務についていた。常陸丸の日本から欧州に向かうときの出港の様子は悲壮感が漂っていて、残された家族はただ無事を祈るだけであった。
 常陸丸を捜索に行った船が日本に帰り『酒悦』『池之端』『福神漬』の焼印のある木箱が見つかったとき初めて常陸丸が捕らわれたれたのではなく遭難に遭ったことを感じたのではないのだろうか。木箱の新聞報道があって20日位たって常陸丸の乗員・船員の生存の望みのある知らせが届き、船長の自決の知らせも届いた。この当時の郵船社員とその家族の記憶に強く残っており百年史の思い出募集に福神漬が出てきたのではないのだろうか。

日本郵船株式会社百年史. 昭和63年刊行であるが、多くの社史を読んでいくとそこには共通の事情が出てくる。それは都合の悪いことはあまり記述されないか、またはあっさりと触れている。時代や時期によって法規範に反する行為となって記述されないこともある。
 郵船の福神漬もこれから記録に残らない理由を探すことになる。

コメント
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