年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

福神漬物語 71根岸党

2010年01月22日 | 福神漬
根岸党
明治23年当時、東京朝日新聞で歌舞伎の劇評をしていた竹の舎主人とは根岸党の饗庭篁村(あえば こうそん)です。根岸党は下谷根岸に集まった不思議な文化人集団で饗庭を中心に活動していた。根岸党は、文学的な一派というよりは、むしろ、文人たちによる「サロン」という趣が強かったといわれる。福神漬の引札を刷っていた鶯亭金升は紹介者として関係していた。根岸党の人達は歌舞伎関係に詳しかったという。『敗者』の精神史山口昌男著486頁から489頁

露伴と遊び 塩谷賛著
一般に根岸派というと根岸に集まった俳人正岡子規らのこともある(根岸短歌会)が福神漬の関係するのは饗庭篁村を中心とした人達のことである。
 根岸に集まった文学・芸術の遊び仲間で、彼等の明治時代より江戸時代のほうが住みよく暮らしよかったと言う気持ちが共通していた。彼らは上野山下三橋の忍川で『八笑人』などを読んで茶番の趣向は変えていたようである。

明治25年高崎にむかう汽車の中で幸堂得知が梨を剥き、富岡永洗(新聞の口絵画家)が竹の皮をひらいてのり巻きを、森田思軒(新聞記者・翻訳家)が福神漬をだして薦め、それを肴にまた酒となる。(55頁)
何気ない記述だがこの頃は福神漬は缶詰で旅行の時の副食として宣伝していた。

大通とか劇通
大通とは辞書によると『遊里・遊芸などの方面の事情によく通じていること。また、その人。』遊び人ということになるが、劇通とは明治時代には歌舞伎通の事で他の芝居はほとんど無かった。
江戸時代は劇通が俳優評判記を出版していたが今の時代のような演劇評論ではなく役者の評判記で贔屓役者の評論という面が強く出ていた。明治時代初めには六二連という劇通が歌舞伎評論を行っていたが、台頭してきた新聞の歌舞伎評論によって次第に駆逐されて行った。台東区根岸に集まった根岸党の人々はその多くは新聞の歌舞伎評論をしていた、饗庭篁村、幸堂得知、森田思軒など。宮崎三昧、幸田露伴、陸羯南、須藤南翠、岡倉天心も根岸党と目されていた。 根岸党は仲間内で酒を酌み交わして歓談し、またともに旅を楽しんで紀行文を残した。いわば芸術家の親睦会だった。その中で福神漬が酒の席で食されていた。(出典・露伴と遊び)

饗庭篁村(あえば こうそん、安政2年~ 大正11年)は、明治時代の小説家で演劇評論家。根岸派の中心人物。明治19年に京橋南伝馬町から下谷根岸に転居する。明治24年頃大久保に引っ越すまで根岸に住んでいた(この根岸の家に同じく根岸党の幸堂得知が引き続いて住む)。饗庭篁村のところに当時の文化人が集まったので根岸党と呼ばれていた。饗庭は酒を飲むだけで肴はあまり重きをおかない人だったという。山田清作(竹のや主人饗庭篁村)
 森田思軒が福神漬を酒のつまみとして食べていたころの話だから饗庭篁村も福神漬で酒を飲んでいたかも知れない。ただ食通ではなかったので食に関する文は少ない。

明治文芸と薔薇 中込重明著によると根岸派・根岸党の人達は『やまと新聞』記者が中心となった文人の情報交換会(飲み会)だった。その中の若手が鶯亭金升と岡本綺堂だった。

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