戸田伊豆守氏栄
寛政5年6月29日生まれ。安政5年7月20日死す。父は御所院番戸田主膳氏友。祖父主膳氏孟は天明4年から天明7年長崎奉行を勤む。
鎖国していた日本近海に異国の船が文化・文政期(1804年~1830年)の頃から頻繁に現れていた。このような時期に戸田氏栄は日光奉行から浦賀奉行となった。(弘化4・1847年2月)8月には浦賀奉行の地位は長崎奉行の次席となった。(幕府における浦賀奉行の重要性の認識、戸田は500石から加増され2千石となる。)老中阿部伊勢守の指示は防備を固め、極力外国船との応接は穏便主義で行くように指示していた。ペリー来航時の応接に対して嘉永5年9月(1852)幕府は浦賀奉行としての戸田伊豆守を報い勘定奉行の次席とした。嘉永6年4月末、井戸石見守が江戸在府の浦賀奉行として勤務するようになった。
近代日本史に残る戸田伊豆守氏栄は久里浜でアメリカの国書を受け取っただけで実際の交渉は浦賀与力・通訳の活躍だったため、幕府においては井戸石見守の活躍で意外と文献が少ない。
彼自身は日本の現状から開国は避けられないと上申していたため、保守的な考えが主流となっていた幕府幹部から嫌われ、ペリー再来航時の横浜での応接の場から外された。
嘉永7年7月戸田伊豆守西丸御留守居役に転出。
浦賀奉行史 高橋恭一著より
享保5年より浦賀に船改めの番所を下田から移し、浦賀奉行の手で江戸に出入りする廻船の取り締まりすることになった。江戸に出入りする船を調べることで治安維持と経済の安定を図る目的の奉行となった。今だと税関の役目を果たしていたといえる。しかし18世紀になって外国船が我が国沿岸に頻繁に出没するに従い、江戸湾防備の役目を果たすべき地位の向上を図られた。さらに外国船応接の役目も加わり、黒船来航の交渉を幕府によって一任されようになった。戸田伊豆守と井田石見守がアメリカ大統領国書を日本の代表として受け取ることとなった。遠国奉行だった浦賀奉行が日本開国の重責を負わされたのである。
欧米列強によって中国が蹂躙されているという情報が入っていて、紛争になるような口実を与えないようにし、浦賀奉行二人に対して黒船を穏便に退去させることが幕府の方針であった。
浦賀の十日
南浦書信 浦賀近世史研究会監修より
ペリー来航と浦賀奉行戸田伊豆守氏栄書簡集
嘉永6年6月3日(1853年7月8日)から12日(7月17日)まで10日間はこの地でどのようなことが起こったのだろうか。
弘化3年(1846年)アメリカ軍艦コロンバス号ヴィンセンス号2艦が清国政府との条約批准書交換の帰途、日本との通商条約締結の可能性の打診のため浦賀に現れた。コロンバス来航のあと老中阿部正弘は浦賀奉行を更迭し、5百石の戸田伊豆守を任命した。異例の抜擢であった。戸田は浦賀の与力中島清司・三郎助親子、与力香山栄左衛門、通辞堀達之助を指揮してこの難局にあたった。アメリカとの交渉は香山らが当たり戸田は幕府から視察に来た人達や応援の人達の応対に追われていた。その中で老中阿部正弘に国書を受け取る他ないと書状を送っていた様である。結局幕府は浦賀奉行に一任して久里浜でアメリカ大統領の国書を受け取るようになる。(日本の開国)
戸田はその先見力や発言の過激さのため、周囲から疎まれ、ペリー再訪日の際、応接の場から外された。このような経緯から直ぐに戸田伊豆守は幕末史から消えて行った。戸田の三男を父に持つ鶯亭金升は彼の本や彼の経歴にも旗本長井家が出ているほうが多いが戸田氏栄から見ると金升は孫に当たる。
ルビコン岬
今の横須賀市走水と千葉県富津岬を結ぶ線を幕末江戸湾防衛のラインとしていた。ペリー等はこの線をローマの故事にたとえて、ルビコン岬と名づけ、ここを平和に超えて通商を結ぶ作戦を立てていた。
日本側も浦賀衆の人たちと.幕府幹部の危機意識の差が表れていた。現場を預かる戸田氏栄は予算不足で台場の建設も遅れたし、ペリーの黒船以前に浦賀に来たアメリカの軍艦の大砲の数より、江戸湾を守っている大砲の数が少なく、威力も弱かったことを知っていた。この事実を浦賀与力から知らされていた戸田は異国船を武力で打ち払うことは不可能であったことを知っていた。黒船来航時、戸田は浦賀に集まった見物人の対応に苦慮したと思われる。大垣戸田藩の協力を仰ぎ、ヤジ馬の暴走を抑え、戦争の口実を与えないで速やかに退去させることに成功した。
武力を背景として開国をせまる人と平穏に退去させようとする人の駆け引きが浦賀衆に委任された。前例のない黒船来航を無事終わらせた。
浦賀衆は鎌倉時代北条時宗が無条件降伏を迫って来日した元の使者を鎌倉竜の口で切り捨てて国論を統一した前例を避けたのである。
寛政5年6月29日生まれ。安政5年7月20日死す。父は御所院番戸田主膳氏友。祖父主膳氏孟は天明4年から天明7年長崎奉行を勤む。
鎖国していた日本近海に異国の船が文化・文政期(1804年~1830年)の頃から頻繁に現れていた。このような時期に戸田氏栄は日光奉行から浦賀奉行となった。(弘化4・1847年2月)8月には浦賀奉行の地位は長崎奉行の次席となった。(幕府における浦賀奉行の重要性の認識、戸田は500石から加増され2千石となる。)老中阿部伊勢守の指示は防備を固め、極力外国船との応接は穏便主義で行くように指示していた。ペリー来航時の応接に対して嘉永5年9月(1852)幕府は浦賀奉行としての戸田伊豆守を報い勘定奉行の次席とした。嘉永6年4月末、井戸石見守が江戸在府の浦賀奉行として勤務するようになった。
近代日本史に残る戸田伊豆守氏栄は久里浜でアメリカの国書を受け取っただけで実際の交渉は浦賀与力・通訳の活躍だったため、幕府においては井戸石見守の活躍で意外と文献が少ない。
彼自身は日本の現状から開国は避けられないと上申していたため、保守的な考えが主流となっていた幕府幹部から嫌われ、ペリー再来航時の横浜での応接の場から外された。
嘉永7年7月戸田伊豆守西丸御留守居役に転出。
浦賀奉行史 高橋恭一著より
享保5年より浦賀に船改めの番所を下田から移し、浦賀奉行の手で江戸に出入りする廻船の取り締まりすることになった。江戸に出入りする船を調べることで治安維持と経済の安定を図る目的の奉行となった。今だと税関の役目を果たしていたといえる。しかし18世紀になって外国船が我が国沿岸に頻繁に出没するに従い、江戸湾防備の役目を果たすべき地位の向上を図られた。さらに外国船応接の役目も加わり、黒船来航の交渉を幕府によって一任されようになった。戸田伊豆守と井田石見守がアメリカ大統領国書を日本の代表として受け取ることとなった。遠国奉行だった浦賀奉行が日本開国の重責を負わされたのである。
欧米列強によって中国が蹂躙されているという情報が入っていて、紛争になるような口実を与えないようにし、浦賀奉行二人に対して黒船を穏便に退去させることが幕府の方針であった。
浦賀の十日
南浦書信 浦賀近世史研究会監修より
ペリー来航と浦賀奉行戸田伊豆守氏栄書簡集
嘉永6年6月3日(1853年7月8日)から12日(7月17日)まで10日間はこの地でどのようなことが起こったのだろうか。
弘化3年(1846年)アメリカ軍艦コロンバス号ヴィンセンス号2艦が清国政府との条約批准書交換の帰途、日本との通商条約締結の可能性の打診のため浦賀に現れた。コロンバス来航のあと老中阿部正弘は浦賀奉行を更迭し、5百石の戸田伊豆守を任命した。異例の抜擢であった。戸田は浦賀の与力中島清司・三郎助親子、与力香山栄左衛門、通辞堀達之助を指揮してこの難局にあたった。アメリカとの交渉は香山らが当たり戸田は幕府から視察に来た人達や応援の人達の応対に追われていた。その中で老中阿部正弘に国書を受け取る他ないと書状を送っていた様である。結局幕府は浦賀奉行に一任して久里浜でアメリカ大統領の国書を受け取るようになる。(日本の開国)
戸田はその先見力や発言の過激さのため、周囲から疎まれ、ペリー再訪日の際、応接の場から外された。このような経緯から直ぐに戸田伊豆守は幕末史から消えて行った。戸田の三男を父に持つ鶯亭金升は彼の本や彼の経歴にも旗本長井家が出ているほうが多いが戸田氏栄から見ると金升は孫に当たる。
ルビコン岬
今の横須賀市走水と千葉県富津岬を結ぶ線を幕末江戸湾防衛のラインとしていた。ペリー等はこの線をローマの故事にたとえて、ルビコン岬と名づけ、ここを平和に超えて通商を結ぶ作戦を立てていた。
日本側も浦賀衆の人たちと.幕府幹部の危機意識の差が表れていた。現場を預かる戸田氏栄は予算不足で台場の建設も遅れたし、ペリーの黒船以前に浦賀に来たアメリカの軍艦の大砲の数より、江戸湾を守っている大砲の数が少なく、威力も弱かったことを知っていた。この事実を浦賀与力から知らされていた戸田は異国船を武力で打ち払うことは不可能であったことを知っていた。黒船来航時、戸田は浦賀に集まった見物人の対応に苦慮したと思われる。大垣戸田藩の協力を仰ぎ、ヤジ馬の暴走を抑え、戦争の口実を与えないで速やかに退去させることに成功した。
武力を背景として開国をせまる人と平穏に退去させようとする人の駆け引きが浦賀衆に委任された。前例のない黒船来航を無事終わらせた。
浦賀衆は鎌倉時代北条時宗が無条件降伏を迫って来日した元の使者を鎌倉竜の口で切り捨てて国論を統一した前例を避けたのである。