黒船来航直前
嘉永6年4月28日 井戸鉄太郎が目付から浦賀奉行になった。6月3日にペリーの黒船が浦賀に現れたので、井戸と戸田氏栄の書簡は黒船来航以前と後とではまったくといってよい位内容が異なる。以前『南浦書信』を読んだ時前半は浦賀の塩問屋の問題ばかりで福神漬の調査では関係ない部分と思っていた。
天保12年12月に株仲間が解散させられ、浦賀では嘉永4年3月株仲間再興の願いが出ている。当時の浦賀は塩問屋がない時代も塩が瀬戸内塩の中継地として安定した量を扱っていたようである。浦賀奉行に戸田が在任している時代に再び浦賀の塩商人が株仲間再興することを画策していたのは幕府財政が厳しく、浦賀奉行所として異国船を砲撃する台場の建設資金を得る目的があったと思われる。結果としてペリーが早く日本にやってきたため東京湾内部まで黒船が進入し、開国となってしまった。江戸時代の瀬戸内塩は苦汁の多い差塩で漬物・醤油醸造に適していた塩だった。千葉行徳の漬物商人喜兵衛はどこかで浦賀の塩商人と商いをしていたと思われる。この様に考えれば浦賀与力中島三郎助と喜兵衛が戊辰戦争最後の戦いとなった千代岳の戦闘で死去したのも納得が行く。維新後中島の遺児が浦賀の塩商人の援助を受けた理由は塩株仲間再興に力があったと思われる。喜兵衛は福神漬に必ず入っているナタ豆に関係していると思われる。幕末江東地区は武江産物志によるとナタ豆の産地であっという。
嘉永6年4月28日 井戸鉄太郎が目付から浦賀奉行になった。6月3日にペリーの黒船が浦賀に現れたので、井戸と戸田氏栄の書簡は黒船来航以前と後とではまったくといってよい位内容が異なる。以前『南浦書信』を読んだ時前半は浦賀の塩問屋の問題ばかりで福神漬の調査では関係ない部分と思っていた。
天保12年12月に株仲間が解散させられ、浦賀では嘉永4年3月株仲間再興の願いが出ている。当時の浦賀は塩問屋がない時代も塩が瀬戸内塩の中継地として安定した量を扱っていたようである。浦賀奉行に戸田が在任している時代に再び浦賀の塩商人が株仲間再興することを画策していたのは幕府財政が厳しく、浦賀奉行所として異国船を砲撃する台場の建設資金を得る目的があったと思われる。結果としてペリーが早く日本にやってきたため東京湾内部まで黒船が進入し、開国となってしまった。江戸時代の瀬戸内塩は苦汁の多い差塩で漬物・醤油醸造に適していた塩だった。千葉行徳の漬物商人喜兵衛はどこかで浦賀の塩商人と商いをしていたと思われる。この様に考えれば浦賀与力中島三郎助と喜兵衛が戊辰戦争最後の戦いとなった千代岳の戦闘で死去したのも納得が行く。維新後中島の遺児が浦賀の塩商人の援助を受けた理由は塩株仲間再興に力があったと思われる。喜兵衛は福神漬に必ず入っているナタ豆に関係していると思われる。幕末江東地区は武江産物志によるとナタ豆の産地であっという。