藤岡屋日記
嘉永3年5月13日
浦賀表御備場見分としてお役人多数出立。西丸留守居筒井紀伊守他多数
9月15日 浦賀表より帰る。
御小姓組・大岡豊後守組 下曽根金三郎
初而御目見 金三郎総領 下曽根治朗助
10月24日
御小姓組・大岡豊後守組 下曽根金三郎
銀十枚
浦賀表備筒相試等、世話仕、骨折候に付、被下之。
右於右筆部屋椽頬、伊勢守申渡之、若年寄中待座。
11月13日
山田奉行 山口丹波守
名代 戸田伊豆守
(山田奉行は伊勢山田にある奉行所である。)
嘉永3年10月末に高野長英が百人組牧野兵庫組同心によって撲殺される。
嘉永3年12月27日高野長英一件落着
牧野備前守
浦賀与力内田弥太郎元屋舗、麻布六本木長英一件に付き、ご不審の儀あり、揚屋入り。種々の風説あり。長英妻にこれまでの出入り候者を御詮議有候よし。
揚屋入りとは入牢したということ。藤岡屋日記では内田が一度は疑われて、入牢した。藤岡屋日記の記述から高野長英が入獄した経緯は無視されていて、専ら牢屋敷に放火させ脱獄逃亡したことを書いてあった。嘉永3年のこの時期は幕府内部で国防を検討していたようで、藤岡屋日記にも色々記事がある。内田弥太郎が一度は入牢したようであるが、この時期に江戸には筒井・戸田・下曽根も江戸にいたようである。内田は国防に必要な人物で長英の妻が自白しないので、風説ということで釈放されたようである。この後ペリーが浦賀に来航時、下曽根と共に内田弥太郎は活躍する。春から夏にかけて下曽根は浦賀に赴任したようで、嘉永6年は4月終わり頃浦賀にいたことが『南浦書信』に資料として記述されている。同様に内田弥太郎も下曽根の下で活動していたと思われる。
高野長英が逃亡中、千葉万歳の花香恭法のとこに行ったのは内田弥太郎の指図と思われる。しかし数日滞在しただけで花香家から消えた。戸田伊豆守氏栄の遺児鉄丸が叔父である長井昌言が心配し内田、下曽根等の世話で花香家へ養子としていったと推測される。
牧野備前守はペリーの国書に対して広く意見を求めた時、阿部伊勢守と共に名前が出てくる人物である。
嘉永3年5月13日
浦賀表御備場見分としてお役人多数出立。西丸留守居筒井紀伊守他多数
9月15日 浦賀表より帰る。
御小姓組・大岡豊後守組 下曽根金三郎
初而御目見 金三郎総領 下曽根治朗助
10月24日
御小姓組・大岡豊後守組 下曽根金三郎
銀十枚
浦賀表備筒相試等、世話仕、骨折候に付、被下之。
右於右筆部屋椽頬、伊勢守申渡之、若年寄中待座。
11月13日
山田奉行 山口丹波守
名代 戸田伊豆守
(山田奉行は伊勢山田にある奉行所である。)
嘉永3年10月末に高野長英が百人組牧野兵庫組同心によって撲殺される。
嘉永3年12月27日高野長英一件落着
牧野備前守
浦賀与力内田弥太郎元屋舗、麻布六本木長英一件に付き、ご不審の儀あり、揚屋入り。種々の風説あり。長英妻にこれまでの出入り候者を御詮議有候よし。
揚屋入りとは入牢したということ。藤岡屋日記では内田が一度は疑われて、入牢した。藤岡屋日記の記述から高野長英が入獄した経緯は無視されていて、専ら牢屋敷に放火させ脱獄逃亡したことを書いてあった。嘉永3年のこの時期は幕府内部で国防を検討していたようで、藤岡屋日記にも色々記事がある。内田弥太郎が一度は入牢したようであるが、この時期に江戸には筒井・戸田・下曽根も江戸にいたようである。内田は国防に必要な人物で長英の妻が自白しないので、風説ということで釈放されたようである。この後ペリーが浦賀に来航時、下曽根と共に内田弥太郎は活躍する。春から夏にかけて下曽根は浦賀に赴任したようで、嘉永6年は4月終わり頃浦賀にいたことが『南浦書信』に資料として記述されている。同様に内田弥太郎も下曽根の下で活動していたと思われる。
高野長英が逃亡中、千葉万歳の花香恭法のとこに行ったのは内田弥太郎の指図と思われる。しかし数日滞在しただけで花香家から消えた。戸田伊豆守氏栄の遺児鉄丸が叔父である長井昌言が心配し内田、下曽根等の世話で花香家へ養子としていったと推測される。
牧野備前守はペリーの国書に対して広く意見を求めた時、阿部伊勢守と共に名前が出てくる人物である。